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山形浩生のNot Yet
「生きる力」のマニュアル
The Dangerous Book for Boys, by Conn & Hal Iggulden, Collins, 2007
The Daring Book for Girls, by A. J. Buchanan & Miriam Peskowitz, Collins, 2007
山形浩生
Yamagata Hiroo
各種始球式なんかで、まともにオーバーヘッドでボールを投げられない婦女子どもを見て、いらだちませんか。そういうのを見て、かわいいと思う人もいるんだろう。それに限らず、いまのテレビは、特に女の子がいろんなことをできないのを見せ物にして喜ぶのが横行し、それは同時に、何もできないことをアピールしたほうが処世術として有効であるという悪しきメッセージの温床となっている。
そしてそれが、男にさえ伝染している様の醜悪さは言うべきにもあらず。2ちゃんねるなどに行くと、自分がいかに無能で対人恐怖症で、まともに仕事もできないどころか仕事をしようとすらせず、親に面倒をかけて、ごくつぶしであるかを競い合っている様子がときどき目に入って、辟易させられることも多い。それはある種の自虐ネタではある。でもその一方で、これまたある種、現代日本の社会環境に対する、極端とはいえ一つの適応形態として誇示されている面もある。
むろんそういう価値観もあるんだろう。無力さをあらわにして、積極的に下腹を曝して「自分は『弱者』です、よって社会などに庇護されるべきです」と訴える手口。社会が豊かになればなるほど、こうした戦略も有効になるんだろう。
が、もちろんすべての人がこんな行動をとったら社会は成立しない。社会的にも、自分でできることは自分でやってくれる人が望ましいというコンセンサスはある。
それは多くの小説や映画なんかにも如実にあらわれている。高名なSF作家ロバート・A・ハインラインは「人間はなんでもできるべきだ——おむつを取り替え、侵略をもくろみ、豚を解体し、船の操舵を指揮し、ビルを設計し、14行詩を作り、貸借を清算し、壁を築き、骨をつぎ、死にかけている者をなぐさめ、命令を受け、命令を与え、協力し、単独で行動し、方程式を解き、新しい問題を分析し、肥料をまき、コンピュータをプログラミングし、うまい食事を作り、能率的に戦い、勇敢に死んでいくこと。専門分化は昆虫のためにあるものだ」。そしていまをときめくハッカー文化においてすら、与えられた制約条件の中で愚痴をたれずにどのように最善の答えを出すか、というのが一つの原理的な倫理となっていることは、多くの人が指摘する。
本書は、そんな理想的社会人養成の書だ、というと言い過ぎだろうか。だが、その根底にあるのはそうした発想だ。
いや、そんな大上段にふりかぶった本じゃない。中身は、少年少女向けの各種ノウハウ集だ。ボーイスカウト/ガールスカウト的マニュアルとでもいおうか。各種の秘密の隠れ家の作り方。暗号や簡単な手品。消えるインキ。おもしろい昆虫や植物。ウサギの狩り方や料理法、魚のさばき方。星の見方。ボタンのつけ方。でもそういうアウトドア的なノウハウだけじゃない。ラジオの作り方、知っておくべき詩、世界の有名人。歴史上の有名な戦い。人前での発表の仕方。世界の七不思議。簡単にできる各種のいたずら。人は当然、インドア的な活動だってできなきゃいけないのだ。
そしてこれは、単に「知っているべきだ」というだけの話ではない。まともな少年少女(それも八歳から八十歳までの)たるもの、ここに書かれているようなことすべてとはいわないにしても、半分くらいについては、本当に心からおもしろいと思うべきだ。義務的にオベンキョーするんじゃない。ちゃんとこれを見て、わくわくして、自分から進んで身につけていく、そういう態度がなきゃいけない。
それは一種のアナクロニズムかもしれない。インターネットとケータイに支配された現代社会で、ここに書かれたような各種技術なんか不要だ、という議論もあるだろう。ウサギ狩り? そんなのできなくったっていいじゃないか。それに狩りなんて残酷だ!
だが本書にはもちろん、子供に狩りを体験させることについての哲学がある。ぼくたちは動物の肉を食べる。それがどんなふうに手元に来ているのか、一応は知るべきだ。自分が狩りをするのは残酷で、他人が何らかの形で殺した動物の肉を食べるのは残酷でないというような偽善はダメだ。自分のやっていることの帰結全体はちゃんと身をもって理解して、その責任を自分で引き受ける必要があるのだ。それをウサギ狩りでやる必要はないかもしれない。でも、何かでやらなきゃいけない。
そして狩りに限らず、ここに紹介されている各種の活動は、すべて大人になってからの現実社会での活動の萌芽となっている。本来であれば当然のことだ。子供の遊びはすべて、本来はシミュレーションの一種なんだから。お遊びを通じて、その後の社会に出るための能力を養おうとするものなんだから。でもいま、そうした遊び本来の意味が、往々にしてくだらない配慮のためにかえって殺されている。本書はそれを思い出させてくれるのだ。
実はぼくが本書を知ったのは、そのダイジェスト版がスキポール空港のビジネス書コーナーに置かれていたからだった。空港のビジネス書の棚というのは、ある程度の売れ線の本しか置かれないところだから、こうした本にもそれなりの需要があるんだろう。単なるノスタルジーなのかもしれない。テクノロジーに囲まれて分刻みで世界をかけまわるジェット族たちが、「ああ、ウサギ追いしかの山よ」と(おそらくは実際にやったことのない)懐古趣味に浸る、そんなことなのかもしれない。
でも、とぼくは思う。それだけじゃない部分もあるはずだ。この本の周辺に置かれている各種のビジネス処世術の本がある。各種対人交渉術だの営業ノウハウ本だの、IT社会のナンタラだの。でも、その基礎はすべて、こども時代のこうしたお遊びにある。
本書を手に取るビジネスマンどもも、うすうすそれに気がついているんじゃないだろうか。
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