山形浩生のNot Yet

個人崇拝に陥らない「古典読み直し」

On The Wealth of Nations(Books That Changed the World)
by P.J. O'Rourke, Grove, 2008

山形浩生

Yamagata Hiroo

 近年、古典の新訳ばやりということもあって、アダム・スミス『国富論』やケインズ『一般理論』の新訳なども出て、経済学の原典が再び読まれるようになっているのは喜ばしい。喜ばしいのだが……その多くは、人文系学問が陥りがちな病気を露骨に示していて、いささかいらだたしいものがある。
 それは、教祖様至上主義というか、ある種の個人崇拝だ。
 ケインズは、ケインズ経済学(そして新ケインズ経済学)の開祖ではある。そしてかれは、新しい領域を切り開くだけの見事な洞察力と理論的構築力を持っていた。でも、かれがその後のケインズ経済学のすべてを理解していたわけではない。かれは先鞭をつけただけだ。だれもケインズ様の教えを丸ごとそのまま伝える義理なんかない。使いやすいところ、有益なところを取り出して、自分なりに発展させても、批判されるいわれはないんですが――でも人文系の人は、「ケインズはそうは思っていなかった」というのがなにやら有効な批判だと思っている。
 ましてアダム・スミス。アダム・スミスはいまの経済学の基盤となった偉人であることに異論はない。『国富論』には、自由競争と市場原理、人々が利己的にふるまうことで実は社会の富が最大化すること、無用な政府規制の害など、現在の資本主義の根幹にある多くの洞察が含まれている。でも、それを読み直そうとする人の多くは、アダム・スミスが資本主義教の教祖であるかのような扱いをする。自由競争や自己利益追求の原則が気に入らない人は「だがスミスは『国富論』の5巻で過度の強欲の害を指摘している」とかなんとか述べて、それで何かいえたつもりになっている。それがどうかしましたか。いまの資本主義社会がアダム・スミスの教え通りであるべき理由がありますか。
 アインシュタインが相対性理論をうちだしたとき、自然科学者はだれも「プリンキピアにはそんなことは述べられていない」「ニュートンの原点に返れ」なんてことは言わなかった。もちろん、プリンキピアを今の時代に読み返すのは、それなりにおもしろいことだ。でもそれは、数学的なツールなしの晦渋な理論展開に驚きあきれ、そしてむしろニュートンの限界(とその理由)を理解するための純粋に歴史的興味から生じる行為でしかない。だれもニュートンが物理学のすべてを見切っていたなどとは思っていない。
 本も思想も、使える部分を便利に使えばいい。原典を読む楽しみは、むしろ未整理のいろんな思いつきのごった煮にあるんだから。
 さて本書は、アダム・スミス『国富論』をアメリカ屈指のユーモアコラムニストであるP・J・オロークが読んで解説したものだ。かれはかつて共和党爬虫類派を名乗り、くだらない被害妄想まみれのサヨクなんか絶対にいやだが、一方でくそまじめなイナカモノ集団の保守派もいやだという都会的な保守の立場を明確にしている。基本的には現状の資本主義社会肯定、くだらない政府規制大反対。そのかれが『国富論』を読んでも、何か目新しいことがあるのか? 手放しの肯定が続くだけでは? でも、そうはならなかった。
 本書はオローク特有の小ネタギャグを連発しつつ、アダム・スミスを評価しながらもその限界をきちんと指摘する。そしてあの長い本を一巻ずつ簡潔に整理しつつ、その論点を手早く(だがかなりていねいに)まとめる。かれがいったい何をやろうとしていたのか、何と戦っていたのか、そして……なぜ『国富論』がかくもクソ長いのか。
 オロークは、学者ではないし、深い洞察を誇示しようともしない。そしてかれは当然、アダム・スミスが現在の資本主義に対する答えを持っているといったくだらない幻想も持っていない。アダム・スミスの各種の主張に対して、かなり共感するところは多いし、またそれが現代にもそのままあてはまる部分が多いことは指摘する。だが、その一方で無用な神話もちゃんと否定する。
 アダム・スミスの自己利益追求その他は、別に革命的な新説ではない。当時、その部分に対してことさらあげつらったような批判はない。またかれは学問としての経済学の始祖とはいえない。それは経済表を作って初のまともな経済分析を行ったケネーの功績というべきだろう。スミスのえらさは、その現実性と実用性へのこだわりにあるのだ、と。
 かれは、懐疑論者だった。懐疑論者は、通常は新しいモノを作ろうとはせず、既存の理屈にケチをつけてまわるものと相場が決まっている。だが、スミスはこの『国富論』――そしてそれに先立つ『道徳感情論』――において、懐疑論者にしかできないポジティブな世界の提案を行おうとしている。かれの懐疑主義は、世界の目に見えない部分、実証されていない部分に対する健全な疑念としてあらわれている。宗教は考えない。まだ見ぬ理想世界を描く変な理論にも頼らない。人々の創意工夫、善意、そして向上心は信じるが、それが完全だとも思わない。現実に可能なこと、できることだけに注目し、そこで何ができるか考える――そこから生まれたのが『国富論』なのだ、と。
 そしてそれは、著者オローク――皮肉と諧謔で知られるユーモア作家――が昔からやろうとしてきたことでもある。その共鳴ぶりが、本書を不思議と心にしみる本にしている。当然ながら、オロークはスミスが自分より頭がいいことをちゃんと認識している。一方で、その頭のいいスミスですら扱いきれない話があったことをかれは描く。政治だ。本書の政治に関する記述はきわめて混乱している、とオロークは指摘する。スミスには、政治に関する未完の書があったという。スミス信者はそれを惜しんだりするが、オロークは、スミスの名誉のためにもたぶんそれは世に出ずに正解だったはずだ、と『国富論』の政治に関する記述を検討して述べるのだ。個人崇拝でもなく、単なるイデオロギー開陳でもない、きわめてまじめで誠実な読解が、一方でここまで楽しく書けるとは。意外な組み合わせではあるけれど、でも本書は我が国のアダム・スミス新訳よりははるかにスミスの本質をうまくとらえているのではないか。