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書棚と本棚 13
重金敦之
Shigekage Atsuyuki 文芸ジャーナリスト。
書物の表紙をデザインするだけが装丁ではないことを今まで述べてきた。本文の組み方や活字の種類も装丁家の仕事の一部だ。多くの場合は編集者が先行して進行しているのが実情ではあるけれども。「活字」と書いたが、パソコン世代の人にはページ設定、フォントと言った方がわかりやすいのだろう。本物の「活字」は消えてしまったのに、「活字文化」という用法に残っている。
旧活字世代では、「組版」であり、日本語の活字(フォント)は明朝とゴチックがほとんどで他は宋朝、隷書、教科書、楷書などだから、あんまり考える必要がなかった、というか選択の余地がなかったのである。厳密に言うと同じ明朝でも会社によって字母は微妙に異なっている。最近の若い人たちは、「活字」を見たことがない。左右逆文字になっている鉛と錫などからできた四角い印鑑みたいな活字を一本一本棚から手で拾い出していたのだ。
新聞の組版の現場から、「ニバイハンゴチでナオチョクを一本」と言った声が文選へ掛かる。ニバイハンというのは二・五倍の活字でゴチはゴチック。一倍というのは扁平な本文の新聞活字の縦の長さで、一倍は88ミルス。1ミルスは千分の一インチ、縦と横の比率は四対五である。ナオチョクというのは「直」の字の活字をください、という意味だ。「ナオ」という字は直の他にも、「尚」も「猶」もあるから、混同しないように、訓と音で「ナオチョク」と言ったのである。やがて自動鋳造機(モノタイプ)が開発され、「手拾い」はなくなった。新聞活字も徐々に大きくなっていった。
石井茂吉が「写植機の発明と写植文字(石井文字)」で菊池寛賞を受賞したのは昭和三十五(一九六〇)年のことだ。写植文字ができてからは、タイポグラフィという言葉が一般的になった。ナールやタイポス、ゴナなど目新しい「活字」が次から次に登場した。長体、平体に斜体など自在だった。同じナールでも細いのから太いのまで三段階があり、活字では考えられなかった文字と文字の間を詰めることも簡単にできた。まさに画期的な発明だった。
和田誠さんは、写植文字を作るのにトライしてみたことがある。デザイナーの田中一光氏(故人)に勧められて写植の会社、モリサワから出すことになった。片仮名と平仮名、数字、アルファベットまでは書き終えた。モリサワはそこまでで良いと言ってくれたのだが、漢字に挑戦したら最低でも六千字が必要ということで断念したそうだ。クセのある平仮名に従来の均一化された機械的な漢字を組み合わせるのを和田さんは潔しとしなかったのだ。どんな文字を書いたのか知る由もないが、輪郭を描いた「袋文字」だったのではないかと想像する。
私は映画の字幕の文字を写植にしたら面白いのではないかと考えたことがある。七〇年代のことだ。映画好きの和田さんは、あの字体を使って装丁したことがある。字幕翻訳者の第一人者、戸田奈津子さんのエッセイ集『字幕の中に人生』(白水社・九四年)だ。昔はフィルムに文字を打ち抜いていたので、文字のどこかが切れていないといけない。「口」みたいな字は穴が開いて、白い四角になってしまう。染色の伊勢型紙を思い浮かべてもらいたい。和田さんはその字体を真似するわけでなく、わざわざ専門家に書いてもらった。やはりあの字体で描く「書家」がいたのだ。
デザイナーのすべてが文字に関心を持ち独特の商品価値のある文字を書けるわけではない。画家も同じである。中川一政氏や独特の字体で二百五十点もの装丁を手がけた佐野繁次郎氏のような人は例外である。イラストレーターとして和田誠さんの好敵手である山藤章二さんも独特の字を描く。漫画家では加藤芳郎さんの字も雅趣があった。今は取り壊されたが、中野区の丸山にあった加藤邸の表札は山藤さんの筆になるものだった。お互いに書き文字の才を認めていたのだろう。加藤芳郎さんには一度拙著の題字をお願いしたことがある。加藤さんにしてみれば絵ではなく字だけ頼まれた仕事は、おそらく最初にして最後だったに違いない。嫌がらずに面白がって描いてくださった。
書店の書棚を眺めていくと、意外に書き文字が少ない。背表紙の文字だけを見て、文字の書き手がわかる本が減ってきた。和田誠、平野甲賀、田村義也(故人)の各氏くらいか。それでは書家に書かせればいいではないか、と思う人がいるかもしれないが、必ずしも書家の字が装丁に向くとは限らない。私も活字を借りてきて、墨や版画用の絵の具などで紙に摺るといった「遊び」をしたことがある。和紙を使って滲みの効果を出すのだ。コピーで濃淡を付けたり、写真に撮ってボケ具合まで試みたこともあった。
今年の夏、武蔵野美術大学で、「背文字が呼んでいる 編集装丁家田村義也の仕事」という展覧会が開かれた。田村さんは岩波書店で雑誌「世界」の編集長も務めたことがある編集者だった。生涯にわたって自ら装丁したおよそ一五〇〇冊の本が展観された。
担当した書籍は装丁から広告まですべてを自分一人で手掛けなければ気がすまない、昔気質の編集者だったのだろう。田村さんが最も多く仕事をした作家は安岡章太郎氏だ。他には内田百〓(ひゃっけん)、本多勝一氏らの本が目につく。ほとんどが男性作家だが、宮尾登美子さん、岡部伊都子さんといった女性作家の本もある。
文字が主体の装丁だが自ら筆を振るった絵で彩ることもあった。田村さんの書き文字(レタリング)は骨太で墨(黒)が強く男性的な文字が多い。とりわけ背文字には執着した。書店で平台に並べられるのは、せいぜい一週間から三週間だ。後は書棚に並べられるがその期間のほうが圧倒的に長い。お客との接点は背表紙しかない。「背文字が決まらないと、全体の構想がまとまらない」というのが持論だった。背文字の落ち着きがわるいので、書名を変えてしまったというエピソードもあった。表紙のカバーと背表紙のレタリングはそれだけ重要ということになる。(この項つづく)
〓は門構えに月
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