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山形浩生のNot Yet
知識人はなぜ堕落するのか
Public Intellectuals: A Study of Decline
by Richard A. Posner, 2001, Havard Univ.
山形浩生
Yamagata Hiroo
リチャート・ポズナーといえば、法と経済学の分野では第一人者であるとともに、ただの学者ではなくアメリカ連邦裁判所判事を務めている法律実務でも一級の人物だ。そしてかれは法と経済学、そしてもっと広くはかれが属するシカゴ学派の立場——あらゆる活動の分析において、規範的な「べき」論に頼らず、経済学的な費用対効果の観点を重視しようという立場——から、知識人的に各種の著作を発表している。
本書はかれが、まさにその知識人についてシカゴ学派的な分析を試みたものだ。そして、かれが本書で考察している疑問というのは、多くの人がうすうすは感じつつもあまりはっきり問われることがなかった疑問だ。すなわち、どうして知識人の発言はかくもいい加減ででたらめでワンパターンで無責任なのか? そしてなぜ、そこに市場原理が働いてダメな連中が淘汰されることがなく、無責任な連中がそのままのさばっているのか?
本書で分析されている「Public Intellectuals」というのは、ポズナーの定義では専門分野外——とくに政治社会的な事柄——のことについてあれこれ発言する人々。日本ではまさに「知識人」と呼ばれる人が該当する。そして、本書の副題「衰退の分析」からもわかる通り、ポズナーはかれらの役割がどんどん低下して重要性を失っているという認識だ。
たとえばノーム・チョムスキー。かれは言語学では重要な人物だけれど、むしろその政治的な発言や著作で有名だ。だがかれの分析は、何が何でもアメリカが悪いというだけ。経済学的な認識はでたらめだし、アメリカ批判のためとあらば、ポル・ポト政権の擁護だってしてしまう。そしてまちがいが指摘されても話をずらすだけで、自分のまちがいを一度たりとも認めたことがない、とポズナーは指摘する。なぜそれですまされるのか?
あるいは昔から一貫して環境危機をあおり、人口爆発で食料危機がくるからインドへの援助をとめてインド人を餓死させるべきだと平然と論じていたポール・エーリック。かれもあらゆる予言が外れているのに、未だ健在。なぜそれで通ってしまうのか?
日本でも人気のあったレスター・サローは、かつてアメリカはもうダメだ、自由放任市場はおしまいで日本的な産官学共同の計画経済が二一世紀を支配する、と述べていたが、一九九〇年代末には、アメリカはすばらしく日本なんかダメだと手のひらを返して平気だ。
ポズナーは、それを、アマゾンのランキングやネットでのヒット数をもとに統計的にあれこれ分析する。そしてかれの出す結論は、実に意地悪なものではある。知識人なんて、そもそも役に立たず軽視されているから、それをきちんとチェックして選別するコストをかけるだけの価値がない、というもの。そして選別されないからゴミが量産され、味噌もクソもいっしょになってさらに軽視されるようになるのだ、ということ(アカロフの中古車市場理論みたいに)。
それ以外にもかれはいくつか理由をあげている。一つは、学問のタコツボ化。昔は、H・G・ウェルズがそうだったように、各種分野について広く深く知っている、学者でない知識人というのがあり得た。でもいまは不可能だ。学者は学者の世界で、狭い領域についてその世界だけの用語で論文を書くのに没頭し、それ以外の世界については何も知らない。広い範囲について書かれた話を、総合的にきちんと批判的に検討できる人はなかなかいないし、検討してもそれを外部にきちんと伝えられる能力のある人は少ないのだ。
そして、こうした知識人の言説はただの娯楽の一種として読み捨てられるだけ、というのもある。だからその場の雰囲気に迎合したようなものが一番受け入れられる。昔はよかった、いまはダメだ、このままではアメリカ(または人類)滅亡だ、というのが知識人たちの昔からのテーマだ。その手段として文芸評論家や哲学者は、古い小説や哲学が何やら現在の危機を予見していたと指摘するのが好きで、それを盾に何やら世相批評をする資格があるようにふるまいたがる。しかしそのロジックは常に後付けで、部分的で、しかもまちがっている。でも、それは別にその場の雰囲気をあれこれもり立てるだけの代物でしかなく、まじめに分析評価されるものではないのだ、と。
なるほど、お説ごもっとも。本書の分析には文句もあって、また、オーウェルの『一九八四年』やハックスレー『すばらしき新世界』について、実際の全体主義社会との不一致をあげつらうのは意味があるのか等、いいたいことはないわけじゃないが、確かに主張としてはわかる。
が、本書をどこまでまじめに受け止めるべきか? というのも、本書自身が本書の分析を裏切っているからだ。評論家たちが無価値だから批判評価がないという本書はまさに、それをまじめに分析評価した本だ。じゃあ、そうするだけの価値がやっぱりあったということ? ある意味でこれは、自分も知識人であるポズナーが、仲間への嫌みとしてニヤニヤしながら書いた代物なんじゃないか。
まあこのぼくも、本書で言われているような知識人の末席を汚す存在ではある。本書の批判は真摯に受け止めるものではある。状況改善についての本書の提案は、もっと言説に責任を持ち、過去のまちがいをきちんと認めるべきだし、そういうチェックが可能なように著作その他をウェブで公開すべきだというもの。いやおっしゃる通り……が、待てよ、これはまさにぼくが自分のウェブサイトで十年前からやっていることではないか。ということはぼくは世界的に見ても実に誠実なチョーえらい知識人!
というわけで、他の知識人(たとえば本誌の著者たち)は本書を読んで、是非このワタクシを見習ってくれたまえよ。垂れ流しは感心しませんなあ、同僚諸賢。一層の奮闘努力を期待するものでありますぞ。
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