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書棚と本棚 16

[書棚と本棚 16]

編集者の仕事

重金敦之

Shigekage Atsuyuki 文芸ジャーナリスト。

 一口に編集者といって一括りにはできないが、その仕事の内容は複雑多岐にわたっている。銀行員や商社マンの仕事がなかなか理解されないのと同じである。
 私がジャーナリストを職業とするにあたって最も影響を受けた書物の一冊に元文藝春秋社長の池島信平が書いた『雑誌記者』(昭和三十三年・中央公論社、後に中公文庫)がある。高校を卒業した年で、熱心に読んだ記憶がある。出版社系で初めての週刊誌「週刊新潮」が二年前に創刊され、松本清張の『点と線』や井上靖の『氷壁』が話題だった。『点と線』は前年の「旅」連載時から毎月読んでいた。
 当時は「週刊朝日」と月刊「文藝春秋」が全盛時代で、流行語は週刊誌から生まれた。テレビはまだ広く普及しておらず、ジャーナリズムは活字メディアが圧倒的に支配していた。翌三十四年の皇太子(今上天皇)と美智子様の結婚パレードの中継を契機にしてテレビ時代を迎える。そんな時期に本書は「自叙伝風」ながら、類書がない明確な「ジャーナリズム論」を展開し、新鮮な新聞批判でもあった。


 現在でもはっきり記憶にあるのは、新聞記者と雑誌記者の違いを説明した次のくだりだ。筺底から探し出してきたので、確認してみた。
〈雑誌記者と新聞記者の相違は、前者が浅くとも何でも知っているのに対し、後者はせまいけれども知識の専門家であることである。更に「雑誌記者は自分のつくっているもののソロバンを知っているのに、新聞記者は金勘定を知らなくても、新聞がつくれる」ことである。
 返品がいくらあると、いくら赤字になるというように、雑誌記者は中小企業者だから、いつでも営業の連中から、シブイ計算表を見せられて、雑誌をつくっているのだ。新聞の論説委員のように、高邁な言を吐いてばかりいられないのである。〉
 マスコミの世界で働く人たちの仕事や内幕が、実に的確に描写されている。編集者や雑誌記者に興味と関心を抱いたのは当然なことであった。大学を卒業して新聞社に入ったものの、たまたま出版畑を歩むようになったのは、この書に巡り合ったことと無縁ではないように思える。どこかで編集者願望があったのかもしれない。
 昨今は経済状況の影響もあるのだろうが、新聞記者もソロバンとは無縁でなくなった。かつては「良い記事を書くためには、いくら金をかけても構わない」と公言してはばからない上司がいた。最近は海外の事件取材や航空機、ヘリコプターの取材など、新聞記者も中小企業並みの経営感覚が要求されるようになってきたのではあるまいか。
 販売部数と広告は新聞経営の両輪だが、現在の広告段数と内容を見れば、信頼性と有効性に疑問符が付いたのは明らかだ。出版社も単行本や雑誌の新聞広告を控えている。活字メディアの広告全体が凋落傾向にあるのだ。
 しかし、新聞記者がソロバンを持たなくてはいけない時代というのは、どう考えても不幸な時代としか言いようがない。いや、この考え方自体がすでに時代遅れで、「歴史遺産」扱いなのかもしれない。それだけ時の流れは早い。


 もう一カ所、編集者は、「絵画と写真について相当な知識をもっていなければならない。絵画というのは表紙であるし、写真というのはグラビアである」という言葉もしっかり覚えている。用紙難が解消され、印刷技術の発展によって雑誌のグラビアページがカラー化され、「ビジュアル」という言葉がもてはやされる前段階だった。写真は高校生のころから「アサヒカメラ」を購読していたし、いっぱしの「カメラ小僧」だったから、相応の自信はある。しかし絵心なんていうのは全く無縁だったから、ある意味ではショックだった。当時の「文藝春秋」の表紙は長いあいだ安井曾太郎(先日NHKの女性アナウンサーが「そたろう」と読んだらしい)が担当していた。しかし池島信平は、「絵がわかるというのもずいぶん曖昧ないい方だが、少くとも絵が好きであって欲しいと思う」と控えめに述べている。後年、編集者として多くの画家や漫画家と親しく付き合うようになるとは、思ってもいなかったことだ。
 編集者は作家に限らず、学者や有名人の原稿を取ってくるという仕事がある。それより以前に、誰に何の原稿を書かせるかという企画力が要求される。座談会の司会や内容の「構成」ができなくてはいけないし、広告文案を作る才能も求められる。筆力はもちろん、校正の能力も必要だ。
 一流を目指すのでなければの話だが、新聞記者は体力さえあれば編集者なら誰でもできる。逆に一流の新聞記者であっても、三流の編集者にさえなれないことがある。別に能力や難易の差を言っているわけではない。似ているようで、全く異質の仕事だと言いたいのである。(この項続く)