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書棚と本棚 21
重金敦之
Shigekage Atsuyuki 文芸ジャーナリスト。
東京オリンピックの前年、朝日新聞社に入社する半年ほど前に「文芸朝日」という月刊誌で「行儀見習い」みたいなことをやったことがあった。一種の研修である。
私が与えられた「文芸朝日」編集部の机の数メートル先隣に「アサヒカメラ」の編集部があった。夕方になると、どこか下町の職人みたいな年配のおやじさんが必ずと言っていいようにぶらりと姿を現した。木村伊兵衛だった。編集部の人は別に歓待するそぶりもみせず、木村伊兵衛も別に議論に加わるわけでもなく静かに椅子に座っていた。なにか仕事の注文が出るのを待っている出入り商人みたいな感じだった。あの有名な木村伊兵衛と、すぐそばで働いているのが夢みたいな心もちだった。
「文芸朝日」の奥山益朗(故人)に連れられて、直木賞を受賞したばかりの山口瞳に会った。まだ東急東横線の元住吉にあったサントリーの社宅に住んでいた。二作目の『江分利満氏の華麗な生活』が出たばかりで、次の一節をはっきり覚えている。
〈カメラマンはどうしてみんなラーメンが好きなのだろう。嘘だと思ったら、知り合いのカメラマンに聞いてごらんなさい。(略)食欲旺盛でエネルギッシュで動物型である。これにも意味がありそうに思われる。カメラマンは相当な肉体労働を必要とする。煙突や松の木にスルスルと登る。咄嗟の判断を要求される。反射神経が不可欠である。従って植物型では勤まらない。〉(文藝春秋新社)
山口瞳が一緒に仕事をしたのは、報道カメラマンというよりは、商業写真畑が多かったと思われるが、それでも「動物型」と感じていたのだろう。当時は現在のように写真家の仕事が細分化していなかったような気がする。当時すでに料理写真の分野で華々しい活躍をしていた佐伯義勝も元は報道写真家で、石川県の米軍試射場を巡る「内灘闘争」を撮った迫力ある写真がある。
昭和三〇年代は、写真ジャーナリズムが活況を呈するようになる。安価な写真機が普及し、写真家も増えていった。それ以前は、写真機そのものが贅沢な品だったので、写真機を持つことができた一部の金持ちの子息か、新聞社にいる人間しか写真家になれなかった、といってもいい。
だから大学生だった篠山紀信が高級機「リンホフ・テヒニカ」(当時日本には数えるほどしかなかった)をぶらさげて、広告制作会社「ライトパブリシティ」の入社試験を受けに来た、という「伝説」が生まれた。これは彼を売り出すための「作り話」だったという説を早崎治(故人)から聞いたが、真偽のほどはわからない。
「ライトパブリシティ」が言ったのか、篠山紀信が言ったのかわからないが、「広告写真家は、ダイヤモンドから飛行機まで撮る」という言葉があった。これは、タバコのピースのパッケージをデザインしたアメリカのインダストリアル・デザイナー、レイモンド・ローウィの著書『口紅から機関車まで』にヒントを得たのである。
正式入社と同時に「週刊朝日」編集部に配属されたが、隣の「朝日ジャーナル」で「現代語感」というグラビアのシリーズが始まった。新聞紙面でよく見る二文字の漢字の熟語を選び、その語感を写真で表現するというものだった。作家の飯沢匡の発案といわれる。
「連帯」、「過密」、「自立」といった言葉が選ばれ、大江健三郎、曽野綾子、安部公房などによるエッセイと一枚の写真を組み合わせた。六八回の連載中、四二回を富山治夫が担当した。皇居前で一定の距離を置いて、男女が抱き合う「連帯」、錦糸町の都電停留所にひしめき合って電車を待つ「過密」など、日本の写真史に残る傑作が生まれた。
定時制高校時代に教師とけんかをして退学した富山治夫は「女性自身」などで写真を撮っていた。「大学卒業」と同等の給料を払うから、という入社の誘いを頑なに拒否し、契約カメラマンとして出版写真部の仕事をしていた。森本哲郎や團伊久磨と海外へ出かけ、多くの記憶に残るルポルタージュを手掛けた。
富山治夫も篠山紀信も、ともに一緒に仕事をしたことがあるが、山口瞳がいうところの、「反射神経」には素晴らしいものがあり、「動物型」として獲物を狙う鋭い嗅覚を備えている。岡村昭彦が平敷安常に「お前にはまだ思想や哲学がない」と言った話を前回紹介したが、シャッターを押す瞬間に思想と哲学が必要なのかは、分からない。
カメラマンには撮った写真を、後から言葉で説明するのが得意なタイプと不得意なタイプがいる。「決定的瞬間」はすでに過ぎているのだから、「思想や哲学」を後から付け加えるのはまだいい。最も困るのは、撮る前に四の五の理屈をこねるカメラマンだ。編集者はカメラマンの理屈を聞くよりも、シャッターの音を耳にしなければ安心できないのである。(敬称略・この項続く)
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