Step ahead 日本女性としてさらに輝く先へ

細川佳代子

PROFILE

ほそかわ かよこ 1942年中国東北部(旧満州)生まれ、神奈川県で育つ。上智大学文学部英文学科卒業。71年細川護煕氏(元首相)と結婚。政治家の妻として27年間、夫の政治活動を支える。護煕氏が熊本県知事になった80年代半ばごろからボランティア活動を本格的に始め、94年「スペシャルオリンピックス日本」を設立。同団体がNPO法人になると理事長に就任(現在、理事)。2005年長野で開催された『スペシャルオリンピックス冬季世界大会』会長として同大会を成功に導く。他に「世界の子どもにワクチンを」日本委員会代表を務める。


インタビュー、構成=西山由美
写真=筒井義昭


細川佳代子インタビュー
何かを始めるのに遅すぎることはないのです

湘南でサーフィンや
ゴルフに明け暮れたあの日

 大学卒業と同時に輸出関連会社のヨーロッパ駐在員として、単身で海外に渡った。1966年、女性は大学を卒業したら、就職ではなく結婚するのが当たり前の時代。しかも海外で働くというのは常識外れのレアケースだった。
 元首相夫人という肩書が当然のように付いて回り、上品なお嬢さまと思われがちだが、「とんでもない、おてんば娘よ」と細川佳代子さんは笑う。父親は藤沢市(神奈川県)の名士的な事業家だったが、三女の細川さんは自立心が旺盛な行動派。自身の20代についても、まさにチャレンジャーだったと振り返る。
「高校生のころから湘南の海で波乗りに明け暮れていました。大波にさらわれたこともあったけれど、そんなのへっちゃら。危険だからこそ挑戦しがいがあるし、面白いの(笑)。大学ではゴルフ部に入り、キャディーのアルバイトに精を出した。親はわたしの性格をよく知っていたから、海外赴任にも反対しませんでしたね」
 意気揚々と働き始めたが、海外での仕事は「きつい」ものだった。ドイツ語とフランス語がうまく話せず、取引先は都合の悪いことが起こると「あなたの語学力が問題だ」と責め立てた。
「部屋に戻って毎晩わんわん泣いていました。もう日本に帰ってやると、何度思ったことか。だけどここで仕事を辞めたら“やっぱり女はダメだ”とレッテルを張られてしまう。自分が道を切り開かないと、後が続いていかないんだと自分に言い聞かせて、男性の3倍働きました」
 そんな細川さんだからこそ、いまの働く若い女性に対して、ある種の「歯がゆさ」を感じる。
「昔に比べ、女性社員は多くの面で会社に守られています。でもそれが逆に災いして、チャレンジ精神が奪われている。新しいことに対して尻ごみする人が多く見受けられて、残念ですね」
 20代の終わりごろ、転機が訪れる。仕事でローマに滞在中、偶然にも大学時代のゴルフ部の先輩・細川護煕さんと数年ぶりに再会した。
「じつは在学中に彼からプロポーズされていました。その時は結婚なんて考えられる年齢でもなかったし、大学時代の彼はオジンくさくて、タイプじゃなかったから断ったの(笑)」
 護煕さんは衆院選に落ちた直後。親からも勘当されて、世界放浪の旅の途中だった。
「挫折や苦労を味わったおかげでしょうか。彼はとても魅力的になっていた。“僕に必要なのは君の明るさだ”とプロポーズされて、これは運命かなと受け入れました。でも、もし彼がとんとん拍子で政治家になっていたら、結婚していたかどうか。彼の力になりたいという強い思いがあって、一緒に歩むことを決めたんです」
 やがて夫・護煕さんは熊本県知事に。細川さんは自民党県連婦人部の代表となり、ボランティアの組織化に挑戦し成功した。以来、ボランティア活動は細川さんのライフワークとなる。
 十数年前から「スペシャルオリンピックス」の活動に取り組んでいる。スペシャルオリンピックスとは、知的発達障害のあるアスリートに年間を通してスポーツの機会を提供する国際組織。約150カ国に220万人ものアスリートがおり、50万人のボランティアが各地で行われる様々な活動の運営に携っている。昨年、長野県で、『スペシャルオリンピックス冬季世界大会』がアジアで初めて開かれた。世界84の国・地域が参加。その様子を知的障害のあるクルーが撮影した映画『ビリーブ』も今年公開された。
 細川さんはスペシャルオリンピックス日本の最高責任者として活動してきた。今年4月、ひとつの区切りがついたとその任を離れた。「いまは少しほっとしているところ」と話すが、現在も時間が許す限り、各地を飛び回っている。


20代のころ、
ドイツに教えられた日本


 細川さんとスペシャルオリンピックスとの出会いは1991年夏。熊本のダウン症の少女がアメリカで開催された世界大会で銀メダルをとったという新聞記事を見て、初めて知った。
「その3カ月後、少女を指導したコーチをお招きして研修会を開催しました。その時に“どんなに医学が進歩しても、出生児の2パーセントぐらいは知的障害を持って生まれてくる。それは、神様がまわりにいる人たちに優しさや思いやりを教えるために与えてくださったプレゼントだから”という、ある牧師さんの言葉を知ったのです。心の目が開かれた思いがしましたね」
 スペシャルオリンピックスを何としても広めたい─普及活動のために全国を飛び回り、3年後に国内の本部組織・スペシャルオリンピックス日本を立ち上げた。細川さん52歳の時。
「何かを新しく始めるにはもう遅いと思われがちな年齢ですが、それは間違い。人生を味わい深いものとして受け止められ、自分の進むべき道が開けるのは40歳を過ぎてから、というのがわたしの実感です。そこで訪れるチャンスを逃さないためにも、若いうちにひとつでも多くの体験、可能性への挑戦をしてほしいですね」
 20代は経験を積む時代、30代は自分を知る時代、そして40代は自分の道を進む時代だと、自身の経験を踏まえて語る細川さん。働く女性たちにこうアドバイスをおくる。
「世間の評価に振り回され、あっちにふらふら、こっちにふらふらして人生を無為に過ごす人をよく見かけますが、要は自分自身を知らないから。自分が何者であるかを知っている人は、うわべで判断せず、自分のものさしで物事を測ることができる。自分を知らなければ、進むべき道も見つからないから迷い続ける。揚げ句の果てに相手が悪い、環境が悪いと責任転嫁をしてしまう。これでは人間として成長できません」
 最後に細川さんは「失敗から多くのことが学べるのだから……」と、感慨深げに自身の失敗談を披露した。海外で働いていた24歳の時、あるパーティーでドイツ人の紳士が「日本は素晴らしい歴史と教養を持った国。何よりもヒロヒトの存在が素晴らしい」と話しかけてきた。
「でもわたしは“ヒロヒトって何だっけ?”と首を傾げてしまいました。そのうち天皇家の話が始まって、ああ、ヒロヒトって(昭和)天皇のことなんだと、ようやく気がついた(笑)。日本人として当たり前のことも知らずに、よくもまあ、海外で仕事をしていたものよね。でもそれをきっかけに、古事記や日本書紀を読んで勉強するようになりました。失敗や恥をかくことは誰でも嫌なこと。だけどそこには、多くのことを学べるチャンスが必ずあるんです」