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野村萬斎

PROFILE

Mansai Nomura 1966年、東京都生まれ。狂言師。世田谷パブリックシアター芸術監督。野村万作の長男。3歳で初舞台を踏む。狂言や能舞台での活躍はもとより、狂言の技法を駆使した『まちがいの狂言』『藪の中』などの演出や、舞台『子午線の祀り』『オイディプス王』『ハムレット』、映画『乱』『陰陽師』、テレビ『あぐり』『にほんごであそぼ』(以上、NHK)などに出演。2005年、演出・主演した『敦─山月記・名人伝─』で朝日舞台芸術賞、紀伊國屋演劇賞を受賞。主な著書は『狂言サイボーグ』など。今年、開場10周年を迎える同劇場では『翁・三番叟』(4月5日~)、『鐵輪(かなわ) 能楽現在形 劇場版@世田谷』(5月15日~)、『国盗人』(6月22日~)などがひかえている。


文=森 鈴香(ジェイヌード)
撮影=奥村恵子(Image)


野村萬斎 インタビュー
舞台人としてのニッポンの品格

台本はわかりやすくないほうが
いいという説もある。
そのほうが挑みがいがあるから。
まず自分自身が立ち止まってみる。
それが重要なのです。

“悪”は必要なもの

「舞台人としてのバランス感覚でしょうか。それとも天の邪鬼だからでしょうか(笑)。狂言には人を殺すほどの悪人は登場しない。だから極めつきの悪役をやってみたい。狂言では女性に尻をたたかれてばかりだから、女性を騙す役もやってみたい。基本的に喜劇的な要素が多いですから、悲劇的なものや悪というものに惹かれるもうひとりの自分を出してみたいと」
 ここは東京・三軒茶屋にある「世田谷パブリックシアター」のロビー。休演日のこの日、誰もいない空間にあっても謡うように朗々と響く萬斎さんの声を、私たちは独占している。
 萬斎さんの話は6月に幕が開く新作『国盗人』を中心に語られる。この作品はシェイクスピア劇のなかでも悪の代名詞を冠する『リチャード三世』を下敷きにしている。
「狂言に『武悪』という鬼の面がありまして、その面には三つの表情があります。あごを引くといかにも鬼らしい顔になり、正面を向くと笑っている。そしてもうひとつは『照らす』といって、あごを上げれば泣いた表情になる。今度私が演じるリチャード三世という男は悪の権化、鬼のような存在。しかしその一方で非常に親しみをもたれるトリックスターでもある。その多面性が『武悪』に似ているとひらめきましてね。狂言との近似値がありつつ、線対称のもの、たとえていうと白黒反転したような世界。これなら、今の私にできることではないかな、と」
 萬斎さんとシェイクスピアの縁は1990年の『ハムレット』にはじまり、2001年に初演した『まちがいの狂言』へと続く。今回の『国盗人』でも演出を手がける。
「今回は狂言の枠を超えて“出自”が、いってみれば“食べているもの”が違う現代劇の人たちが参加する。つい先日からワークショップをはじめたところで、私がおもしろいと感じることを、同様におもしろがってくれるのか、いろいろ考えます。しかしここが演出する者の特権で、まずは私のおもしろいことにつきあっていただき、方法論としては集まったメンバーの共通項を探っていきます」
 ワークショップを繰り返すと“化けの皮”がはがれて、それぞれにできることとできないことが見えてくるという。「私自身も勉強させてもらっていますからね(笑)」という萬斎さんのあり方が、それぞれ出自の異なるプロたちを一つにまとめていく秘訣なのかもしれない。  演出家の重要な使命の一つは、作品で主張すべきテーマは何かを見いだすことだと萬斎さんはいう。
「悪とは何か? 悪の存在意義というものにスポットをあてられたらと思っています。『極楽が本当に幸せなのか、極楽ほど退屈なものはないのではないか』ということを説いた文献がありましたが、人間というのは『平和、平和』と口にしながら、どこかで悪の登場を望んでいるのではないでしょうか? リチャード三世もやっと戦争が終わって平和を迎えたところで、悪を決意する。だから彼には悪にならねばならない必然性や、役回りがあるのではないかと思うわけです。この作品には予言めいたものが出てきます。予言、呪文、宿命。人間にはそうしたことも含めて本人の意思だけではどうにもならないことが現実的にあるわけです」
 目に見えないけれども確かに存在する。そうした存在感を“感じさせる”ことに古典芸能は長けているという。
「大掛かりなセットで壁がガラガラガラーッと落ちてきたら、何か大きな力がかかったのだなと目に見えてわかるでしょう。しかしわれわれが狂言で培ってきた演出方法は、観客のみなさんの想像力に訴えることで状況や人間像を引き出すこと。演者が作り出す空間とか時間の流れでそれを生み出してゆくわけです。ですから今回の作品も、狂言師である私が演出する意義があると思うんです。“日本演劇=ジャパニーズシアター”、つまり日本人ならではの芝居をつくりたい。わざわざ日本語で聴かなきゃいけないシェイクスピアを。たとえば黒澤明監督の『蜘蛛巣城』はシェイクスピアの『マクベス』を戦国時代に置き換えた映画です。この作品を観て、『マクベス』よりおもしろいというイギリス人もいる。そんなふうに日本人がつくるという必然性を生みだすために、古典芸能の知恵をうまく利用できたらいいなぁと。古典芸能は宝の山です。たとえばミュージカル『ライオンキング』を生んだ演出家、ジュリー・テイモアは、その日本の宝の山からたくさんのものを発見している。かえって海外の演出家のほうが敏感なようです。今度は日本に根ざした文化をみずから世界に向けて発信する番です」


“化合”という日本人の得意技

 ジャパニーズカルチャーへの注目度が最近ますます高まっているように感じられる。
「たとえば能楽には雅楽の影響があり、歌舞伎には能楽の影響があるように、それぞれはまったくの別物ではない。そういう融合的なものが日本の文化形成を独特なものにしている。私は“化合”という言葉を使うんです。単に混ぜ合わせるだけでなく結びつけることで別の新しいものになる。それが日本文化の良いところだと思うんです。西洋ではある意味、旧を否定して新しいものを追い求める。しかし日本人であるわれわれは蓄積する力、継続の力をもっていることに加えて、新しさを吸収すること、そして現代性をミックスすることが得意。伝統という線と現在という点をつなげてゆく。点だけで終わらせてはいけない。そういう発想を大事にしていきたいのです」