若年労働の現場2
[ケアワーカー]
気力と体力勝負の「聖職」
阿部真大 東京大学大学院博士課程
あべ・まさひろ 1976年、岐阜県生まれ。東京大学文学部卒。専攻は労働社会学・家族社会学・福祉社会論。著書に『搾取される若者たち(仮)』(集英社新書、10月刊)、論文に「バイク便ライダーのエスノグラフィー」(『ソシオロゴス』29号)、「相続人の選好に重点を置いた相続モデル」(『年報社会学論集』18号)、「ポスト日本型福祉社会におけるケア労働」(『未来心理』7号)などがある。
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今、高齢者ケア(介護)の世界で、ユニットケアという新しいケアのあり方に注目が集まっている。ユニットケアとは、個別対応のケアを達成するための手段で、10人ほどの少人数の単位(ユニット)ごとにケアの提供をおこなうものだ。利用者の居室は原則、すべて個室である。
画一的な「レディメイド」の集団ケアから、利用者一人ひとりに合わせた「オーダーメイド」の個別ケアへ。これが、ユニットケアの基本となる思想である。この手法は、「ケアする側からケアされる側への視点の転換」というスローガンとともに、全国の「先進的な」ケア施設(特別養護老人ホームなど)において急速に普及している。
利用者の声を聞いてみよう。
「前の施設では4人ひと部屋でした。一人のほうが気を使わなくてもいい。仲間といると楽しいこともあるけど、けんかしたりすると面倒。一人のほうが楽です」(90代利用者)
このように、利用者の多くはユニットケアを評価する。ユニットケアは、彼らケアされる側にとっては、非常に満足のいくものである。
しかし、ほかのすべての経済活動や生産行為と同様、ケアも「相互行為」であることを忘れてはならない。ケアを受ける側だけでなく、ケアを提供する側、つまりケアワーカー(介護労働者)たちの労働の満足度についても考える必要があるのだ。理想のケアは、双方の満足度が高い水準で安定してはじめて可能となると言えよう。
では、なぜ今、彼らの労働条件が問題となるのだろうか。歴史的な背景を確認すれば、二つの理由があげられる。
一つ目は、介護保険導入以降の介護労働の社会化にともなうケアワーカーの数の急速な増大である。ケアワーカーの代表的な資格「介護福祉士」の登録者数は、2005年の時点で、46万7701人。これは、10年前に比べて約7倍の数字である。
二つ目の理由は、ケアワーカーの「属性」の変化である。現在、戦後の安定社会を支えてきた「専業主婦/サラリーマン」の組み合わせからなる「家族の55年体制」(落合恵美子『21世紀家族へ』有斐閣)が崩れつつあるとされる。そうした過程で、学校から正社員サラリーマンへという「正規の」就業ルートから外れた多くの若者たちが、低賃金のサービス産業に吸収されている。その結果、ケアワーカーの仕事も、被扶養の立場にある主婦パートの仕事から、従来であればひとり立ちすべき立場とされてきた若者の仕事へと移行してきている(拙論文「ポスト日本型福祉社会におけるケア労働」『未来心理』7号参照)。
つまり、ケアワーカーが抱える問題を考えることは、「若年労働」の問題そのものを考えることにもつながるのだ。
ユニットケアは「理想」か
こうした問題意識のもと、私は昨年夏、秋田、富山、千葉、神奈川にある計6カ所のケア施設に足を運び、ケアワーカーや利用者、経営者に対して長期にわたってインタビューした。その結果分かったのは、ユニットケアは第一に、彼らケアワーカー自身にとってもプラスの作用をもたらしているということだ。つまり、以前よりもケアが「やりがい」のある仕事と受け止められている。居室の個室化によってワーカーと利用者との距離がより近くなり、仕事におけるワーカーの自由裁量の範囲が大きくなるためである。
「自分の思ったことがかたちになる。そしてそれが感謝される。そんなときがたまらないですね」(40代施設職員)
これが、ワーカー全員の気持ちを代弁する言葉といえよう。
ケアワーカーの多くは、利用者と自分という固定的な二者関係のなかで、創意工夫を凝らしながら働くことに喜びを感じている。そうした「やりがい」は、以前、集団ケアの職場で働いていたワーカーにとって、なおさら大きく感じられるようだ。集団ケアの職場とはどんなものなのだろうか。話を聞いてみよう。
「入浴は、大勢を一度に入れます。廊下に順番に並ばせて、いっぺんに何人も大きなお風呂に入れるんです。流れ作業で、イモ洗いみたいな感じですね」(30代施設職員)
「流れ作業」「イモ洗い」。これらが集団ケアの現場を語る際によく使われるメタファーである。こうした経験のあるケアワーカーたちは、集団的なケアのことを「人間的ではない」と非難する。
確かに、集団ケアが非人道的で、つらい仕事であることは、直感的に理解できる。私も自分の肉親がそんなふうに風呂に入れられていたらと思うとゾッとする。こうした集団ケアにおいて目指されているのは、働く側の「効率」を重視した「ワーカー・施設側本位」のケアである。
これに対して、ユニットケアの職場で目指されるのは「利用者本位」のケアである。
「ユニットケアは一人ひとりの希望をかなえることができる理想のケアです。自分はここで働くことができて幸せです。従来型(の集団ケア施設)からここに来たときは(今までのことを思い出すと)悔しくて涙が出ました。今も従来型で涙を流して働いている人がいます」(40代施設職員)
集団ケアと比べ、ワーカーに「やりがい」を感じさせ、ケアする側・される側双方の満足度を高めるユニットケア。しかし、こうした話だけを聞いて、利用者とワーカーの満足度が高い水準で安定しているユニットケアを「理想のケア」と結論づけるのは早計であろう。
「やりがい」の「蟻地獄」
一つ、大きな問題がある。ケアワーカーの仕事は「やりがい」はあるが、賃金が低く、不安定な仕事なのである。介護労働安定センターがおこなった、04年度『事業所における介護労働実態調査』によると、介護職員の月給は、正社員で平均20万8千円、非正社員の常勤で16万3千円である。また、平均勤続年数は3・4年である。ちなみに、『賃金構造基本統計調査』によると、女性のパートタイム労働者の平均勤続年数は、04年のデータで5・1年だ。
こうした低賃金で不安定な雇用状態は、特に若いケアワーカーたちにとって危険なものである。
社会学者のジークムント・バウマンが言うように、「フレキシブル(流動的)な労働市場」において、1カ所の職場にとどまり、そこで自己実現を果たそうと願うことは、自らの可能性を必要以上に限定する半面、いつでも解雇・失職の危険が身に迫っているという点で、「大きなリスクを背負うことであり、心理的、感情的な破滅の原因でもある」(渋谷望訳「労働倫理から消費の美学へ」『総力戦体制からグローバリゼーションへ』平凡社)。
不安定な労働条件のもとで一生懸命に働く若者に対しては、「今の仕事を続けるのはほどほどにして次の転職先のことも考えるべきだ」というアドバイスが必要であろう。
しかも、私がケアの現場で直面したのは、先ほど述べたような、互いに満足感いっぱいの風景ではなかった。
例えばこうだ。インタビューの最後に、先に述べたような低賃金・不安定な労働の不安を指摘すると、あるケアワーカーはこう反論した。
「そんなことは分かってるんですよ。でも、阿部さんとは見てる場所が違う。私たちは、目の前の人を見ている。それだけです!」
自分たちの仕事が低賃金で不安定であることなど、彼ら自身もじゅうぶん分かっている。だから、私のような部外者からそれを指摘されると余計に腹が立つ。しかし、分かっていても、目の前にいる利用者のために粉骨砕身して働いてしまう。待遇は変わらず、肉体と精神だけが疲弊していく……。それが彼らにとって悩ましいところである。
言うまでもないことだが、ユニットケアでの労働には、1対1の気の抜けない関係における「感情労働」という側面がある。利用者個人への感情移入と、可能な限り親密なコミュニケーションが求められるからだ。しかし、私が現場で目の当たりにしたのは、肉体的なきつさの上に精神的な緊張感が重なる、という単なる「感情労働」以上に過酷な労働実態であった。
ケアワーク(介護労働)は、ワーカーが利用者を助けようとすればするほど、際限なくサービスがエスカレートする傾向がある。それは、利用者の大半が家族と離れて暮らす「かわいそうな存在」であり、利用者とケアワーカーとの関係が非常に密接であることと無関係ではない。社会学者の井口高志氏は、家族介護者の持つ介護しなければという強い志向性を、家族介護の「無限定性」と名づけたが(「家族介護における『無限定性』」『ソシオロゴス』第26号)、それと同じことが、ケアワーカーと利用者との間でも生じているのである。
「〇〇さんが倒れても、どうもできない、どうしてあげたらいいかっていう無力感におそわれます」(20代施設職員)
助けを求めている親密な人が目の前にたくさんいる……。ケアワーカーをワーカホリック(仕事依存症)にするのは、端的にこの事実である。このような利用者を前にして、ケアワーカーたちは、みずからの労働条件を犠牲にしてまで、利用者の願いをかなえようとする。利用者がきちんと満足してもいないのに労働者としての自分たちの権利を主張するわけにはいかない、というケアワーカーたちの自己犠牲の精神には、インタビュー中、何度も驚かされた。
「(労働条件に関して)自分たちは権利を主張してはいけません。認知症の方々のことを完全に理解できてないうちに、そんなことを主張することはよくない」(20代施設職員)
ユニットケアにおいて、よいサービスをおこなうためには、利用者と長時間接し、その人のことを深く知る必要がある。利用者の気持ちをできるだけくみ取ろうとして、戦争体験や戦後の貧しさなど、利用者が生きてきた時代背景まで知ろうとするワーカーも少なくないという。しかも、知れば知るほど、利用者の現状を気の毒に思う気持ちに拍車がかかってしまう。ユニットケアの労働とは、長く携われば携わるほど、サービスがエスカレートしていく労働なのである。ケアの世界では、「自発的な」サービス残業は当たり前である。
「応えられる部分とそうでない部分があるが、すべての要望を受け入れると、サービス、サービス、残業、残業になってしまいます」(20代施設職員)
ユニットケアでの労働の過酷さをあらわす言葉でもっとも印象的だったのは、あるケアワーカーの口から出た「蟻地獄」という言葉だった。
「ユニットの中は『蟻地獄』状態。いちど仕事に入ると一瞬たりとも休めない。休憩時間も決まっていないし、食事は利用者と一緒にとります。膀胱炎や腰痛になる人も多い」(30代施設職員)
膀胱炎は、まさに「ユニットケア以降」のケアワーカーの職業病だ。利用者にとって居室の個室化が理想的であっても、ケアワーカーにとっては死角が多くなるという欠点がある。ケアの現場は人手の足りない「ひとり職場」であることが多いため、トイレさえ我慢するのが日常だという。担当している利用者の誰がいつどんな動きをするか分からない、というワーカー一人ひとりの精神的な緊張感が、彼らの勤務時間全体を覆っている。
また、ユニットケアを「戦争」にたとえたケアワーカーもいた。彼らは、「戦場」に送り込まれた従軍看護師のような存在である。目の前には傷ついた人々がたくさんいるのに、圧倒的に人手が足りない。でも、ひとりでも多くを助けたい。自分のことなんてかまっていられない……。彼らは、自分が疲弊しきって燃え尽きるまで人を助け続ける。しかし、自分が倒れたときには誰も救いの手を差し伸べてはくれない。こうしたことをすべて承知したうえで、しかし、今、目の前にいる人を助けなくてはならないと考えるのがケアワーカーたちだ。
過酷な労働条件の改善策
ケアが長く続けられる仕事でないことは、彼ら自身にも明らかである。
「精神的にも身体的にもしんどい。30代までが限界です。多くのワーカーは疲れてやめていく。若い人がどんどん入ってきて使い捨てられています。待遇にも問題があると思う」(30代施設職員)
では、自分が使い捨てだと分かっていても熱心に働きつづける彼らの労働条件を改善するためには、どうすればよいか。「ケアは相互行為である」という認識に照らし合わせながら、解決策を考えてみよう。
一つ目の解決策は、介護報酬の引き上げである。介護報酬が上がればケアワーカーたちの収入は増し、彼らの雇用は安定する。しかし、この解決策は二つの点で問題がある。
まず、介護報酬の引き上げは保険料の引き上げを伴うため、国民の賛同が得られるかどうか疑わしい。また、今回の調査で分かったことだが、ケアワーカーの労働条件が改善されないエクスキューズ(言い訳)として、しばしば介護報酬の低さが話題になっていた。特に問題なのは後者である。経営者は、介護報酬の低さを嘆くだけでなく、与えられた条件下でケアワーカーたちの雇用条件を改善すべきなのに、現実はその逆だった。
しかし、経営者ばかりを責めるわけにはいかない。背景には、施設のユニットケア化を強力に推し進める厚生労働省の存在があるからだ。厚生労働省は、02年以降に新設する特別養護老人ホームについてはユニットケア方式を基本とすることを決定した。私に言わせれば、介護報酬は上げないがユニットケアは推進するという厚生労働省の方針こそが矛盾したものであり、そのしわ寄せが、この仕事なり他の仕事なりでひとり立ちしなくてはならない若いケアワーカーたちに集まっている。
介護報酬が上がらないことを前提とした上で彼らを救うためには、厚生労働省の方針に反した解決策しかないのかもしれない。
すなわち、二つ目の解決策、「集団ケアへの逆戻り」である。ある施設では、利用者対ワーカーの人員配置が3対1の集団ケアをおこなっていたが、ユニットケアを導入したために人員配置を2対1にせざるを得なくなり、その結果、正職員中心からパート職員中心の雇用形態に切り替えることになったという。なぜ、ケアワーカーたちばかりが犠牲となるのか。集団ケアというスタートラインにいちど立ち返って「利用者主権」の功罪について考えてみてはどうだろうか。
ケアは「相互行為」だ
しかし、この提言にも問題がないわけではない。そもそも集団ケアとは、ケアワーカーたちの「やりがい」を喚起しない働き方であった。集団ケアへの逆戻りに反対するのはほかでもない、ケアワーカーたちかもしれない。彼ら自身が自分たちの労働条件の改善をよしとしない、という点に私のジレンマがある。
とすれば、検討する価値があるのは、ケアワーカーたちの「やりがい」を満たすことのできる新たな集団ケアの可能性であろう。今のところ、それがどういったかたちのものになるかは分からない。しかし、少なくともそうした方向での議論がおこなわれてしかるべきである。
いずれにせよ、若者の良心と待遇、そして将来を削りとることでしか支えられない「ユニットケア」という仕組みそのものが、長続きしないものであることを私たちは認識すべきだ。若き「ワーキングプア(働く貧困層)」によって担われる「豊かな」福祉社会などという不気味な未来がやって来る前に、「相互行為としてのケア」という言葉のもつ意味を、もう一度考え直す必要がある。
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