今月のおすすめ記事  2007年1月号

on the edge~崖っぷちに立つ若年フリーター

「怒り」の剥奪

助けを求めて、飢えながら
8時間自転車をこいだ

──千葉県、31歳男性、無職

編集部・高橋純子


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6畳一間の自宅アパート。DVDレコーダー、パソコンデスク、ゲーム機……お金になるものはほとんど売った

「生活相談をしてもらえませんか。9月に入ってから、何も食べていないんです」

 2006年9月11日。田島靖さん(仮名、31歳)は、千葉市内の福祉事務所を訪ねた。  収入も、貯金もない。8月中旬から、職を探して派遣会社やコンビニ、スーパーなど10社以上に履歴書を出し、面接を受けたが、全部落ちた。両親は10年前に離婚。母親とはそれ以後ほとんど連絡をとっていない。父親からは「援助しても意味がない。縁を切る」と言われていた。5歳しか違わない継母には、頼れるはずもなかった。
 家賃はすでに4カ月、光熱費も2カ月滞納していた。電話は8月中旬に不通となり、電気は9月下旬に止めると通告されていた。「なんとか助かる方法はないだろうか」。進退窮まった田島さんは9月4日、かろうじてインターネットにつながる自宅のパソコンに向かい、検索エンジンに「生活相談」と打ち込んだ。ホームレスの人たちのブログを読み、そこで初めて、生活保護という制度があることを知った。だが、働いていない人間が、お金をもらって助かろうというのは後ろめたく、すぐに申請する気にはなれなかった。「生活保護を受けるなんて、誰だって嫌ですよ」
 1週間、「後ろめたい」と「助けてほしい」を何度も行ったり来たりしてやっと福祉事務所を訪ねた田島さんだったが、応対した職員は、田島さんの訴えをのらりくらりとかわすだけだった。それこそが、彼の仕事のようだった。
 「法律的には、生活保護の申請は誰でもできます。でも簡単には受け付けられません」
 「どうにかなりませんか」
 「緊急貸付金という制度はあります」
 「じゃあ貸してください」
 「無理です」
 一事が万事、この調子。「生活保護の申請には、就職活動をしているという証明が必要だ」というのでハローワークに行ったら、「電話も保証人もない人には仕事は紹介できない」と言われる。また福祉事務所にとって返し、ハローワークはこう言っていると訴えると「それはおかしいですねえ」。それだけ。話にならないので市役所の担当課を訪ねると、「それはおかしい。でも受け付けは福祉事務所だから、ここではどうすることもできません」。結局、たらい回しで1日が終わった。徒労感が、空腹にこたえた。
 翌12日も福祉事務所に行ったが、同じ担当者が出てきて、同じ説明を繰り返した。行政は助けてくれない。ネットで探した野宿者支援団体などに電話し、助けを求めた。
 1件目、千葉市のNPOは「野宿者じゃないから支援できない」。
 2件目、東京・山谷のNPOは「野宿者でなければ、具体的な支援はできない」。
 3件目、山谷の別のNPOは「東京在住じゃないと支援できない」。
 4件目、また別の山谷のNPOがやっと「東京在住じゃないので支援はできないかもしれないが、相談には乗る」と言ってくれた。
 13日朝7時。自転車にまたがった。山谷までの電車賃はなかった。噴き出す汗を拭い、国道14号沿いをひたすら走った。おなかが減ってたまらないのに、この力がどこからわいてくるのか不思議だった。途中休憩を挟んで8時間。やっと着いた。
 相談は1時間におよんだが、具体的な支援はできないという結論だった。お弁当とカンパン、テレホンカードをもらった。ハンドルにお弁当が入った袋を下げ、午後4時、千葉のアパートをめざして、また自転車をこぎ出した。
 日が傾き、いつしか沈んだ。誰もいない江戸川の河川敷に自転車を止め、腰を下ろし、カンパンをひとつ食べた。うまかった。たったそれっぽっちで「さあ、頑張って家に帰るぞ」という気になれた。自宅に着いたのは、翌日の午前1時だった。弁当を広げると、おかずの肉じゃがの汁がこぼれてベトベトになっていた。ご飯とミックスベジタブルとおしんこ、そして肉じゃが。ちょっとずつ、口に運んだ。
 14日、また福祉事務所に行った。同じ担当者による同じ説明。また支援団体に電話をかけ続けた。「罪を犯して、刑務所に入った方が楽なんじゃないかな」という思いも、頭をよぎった。
 17日、東京・山谷労働者福祉会館まで、また自転車を走らせた。山谷で日雇いの仕事ができないかと相談すると、台東区に「緊急一時保護センター」への入所を相談してみたらどうかとアドバイスされた。わずかなお米をもらって帰った。
 19日、東京・飯田橋のNPO・自立生活サポートセンター「もやい」へ、また自転車で行った。相談すると、「福祉事務所の対応はおかしい」といって、メンバーが翌日千葉まで来て、生活保護の申請に立ち会ってくれることになった。2千円貸してもらい、ポケットにしまった。手持ちは30円しかなかった。
 20日、「生活保護の申請をお願いします」。もやいのメンバーを同伴して福祉事務所を訪れ、事前に記入しておいた申請書を提出すると、これまでの対応がウソのように、あっけなく受け付けられた。あの、見慣れた顔の担当者だった。「これまでの説明は、いったい何だったのか」。全身から力が抜けた。
 10月2日。区役所5階の銀行で生活保護費を受け取った。7万9900円と、家賃の3万1千円。まずは滞納していた家賃と公共料金を支払った。
 田島さんに聞いた。「たらい回しにされ、さぞかし腹が立ったでしょう?」。しかし返ってきた答えは、「怒りとか、そういう感情はありませんでした。2週間もご飯を食べないという状態がどんなものなのかわかってもらえないと思いますが、とにかく助けてほしい、それしか考えられませんでした」。
 福祉行政からは「若いんだから働けるでしょ?」と「タカリ」扱いされ、支援団体からは「野宿者じゃないから」などの理由で手を差し伸べてもらえない。田島さんのような困窮する若年フリーターは、粗いセーフティーネットの編み目から落ち、「見えない存在」にされてしまっている。
 だが田島さんは怒らない。不当に扱われたり、「お前が悪い」と言われたりすることには、もうすっかり慣れっこになってしまっている。
緩慢な「自殺」
 田島さんは小・中学生のころ、典型的ないじめられっ子だった。「引っ込み思案で、動きが鈍かったことが原因だったんじゃないかな。いつも相手の顔色をうかがっていて、我ながら挙動不審だった」。高卒ながら、たたき上げで一流企業の役職を得た父親は、そんな息子に「いじめられたら殴り返せ」「いじめなんか気にせず、学校に行け」としか言わなかった。競争社会で勝ってきた人には、いじめられる側の気持ちなんてわからないのだろう、相談しても無駄だと悟った。母親は、父親との不仲に悩んでいて、とても息子の悩みに耳を傾けるような余裕はなかった。「つらかっただろう、大丈夫だよ、休んでもいいんだよ、とか言ってくれる人がいたら、もっと自分に自信がもてたかも」と思う。
 高校は2年の秋に中退し、翌春、自動車整備の専門学校に進学した。それと同時に、両親が喧嘩ばかりしていて居心地の悪い家を出て、一人暮らしを始めた。
 専門学校も3年で中退。将来への不安よりも、「何とかなる」という楽観が勝った。親からの援助は打ち切られたため、アルバイトを掛け持ちして生活費を稼いだ。しかし、あるコンビニで「死ね」「消えろ」と先輩から毎日激しく罵倒された。簡単に辞めてはいけないと自分に言い聞かせ、1カ月半は勤めたが、限界だった。21歳の4月のことだった。
 コンビニを辞めてからはまったくの無気力状態に陥ってしまった。何をやってもうまくいかない。仕事も。人間関係も。先も見えない。なんで自分はこんなにダメなんだろう――。
 数万円の貯金を切り崩して食いつないだが、6月には底をついた。このまま食べずにいれば死ねるかも、死ねたらいいなと、水だけを飲む日々が2カ月間続いた。8月のある暑い日、台所に嘔吐した。見慣れた緑色の胃液ではなく、米粒大の黄色いツブツブがたくさん、流し台に広がった。朦朧とする意識。定まらない目線。「ああ、死ぬな」と思った。望み通りの展開だった。それなのに、どこからかふと「まだ頑張れば、人並みの生活ができるかもしれない」という思いがせり上がってきた。はいつくばってアパートを出て、100メートルほど先にあった公衆電話の「緊急ボタン」を押した。そこから先は覚えていない。気が付いたら、救急車に横たわっていた。
 55キロあったはずの体重は、35キロになっていた。医者からは「あと1日か2日遅かったら死んでいた」と言われた。
時給400円と「死ね」という罵声
 それから10年。パン工場や自動車組み立て工場、ラブホテルの清掃、交通量の調査員など、田島さんはさまざまな仕事に就いた。ほとんどがアルバイトだった。来る日も来る日も同じことを繰り返す単純労働。職場は殺伐としていて、暴言を浴びせられることは珍しくなかった。JRの車両清掃の仕事では、職場ぐるみで「死ね」「消えろ」「辞めろ」と罵倒され、電車の戸に挟まれそうになったこともある。
 長くて2年、短くて1日。境遇には同情しつつも、そんな田島さんの職歴を聞くと、「仕事で怒られるのは当たり前。田島さんは甘いのではないか」という思いも、頭をもたげてくる。
 だが――。
 田島さんのこれまでの月収は、多くてせいぜい20万円だ。朝4時から夜8時まで働き、休日は日曜だけで、月収16万円という職場もあった。時給にすると400円。真夏の自動車組み立て工場では、脱水症状を起こして倒れたこともある。
 たとえ低収入であっても、認められたり、いつか報われるという希望があったり、「階段を上っている」という実感があれば救われるのかもしれない。しかし、田島さんのような困窮フリーターの前に、上るべき階段はあるだろうか。
 理不尽な扱いを受けるから辞めたいと漏らしても、周囲は例外なく「我慢して続けた方がいい」と言う。すると田島さんの心には「自分がいけないのかな」という自責がまたひとつ積み上がり、怒りを外に向ける気力を奪われる。
 ずっと、そんなことの繰り返しだった。
 「高校を中退してから初めてなんです。こんなにゆったりと、長期的にものを考えられるようになったのは」。生活保護を受けるようになって2カ月目。田島さんは言う。これまでは毎日、将来への不安と、明日の収入をどうやって確保するかというプレッシャーにさいなまれ、その日をしのぐことだけでエネルギーを使い果たした。目の前のことだけを追って深みにはまる、深みから抜け出そうと目の前のものに飛びつくという悪循環。ここから抜け出せた今、じっくり腰を落ち着けて、長く勤められる職場を探そうと思っている。
 父親のもとには、田島さんが生活保護を受けるようになったという連絡が行政から入っているはずなのに、音信不通のままだという。
 「いまのところ、父に連絡するつもりはありません。働かざる者食うべからず、競争に負けた人がどうなろうと自己責任だという考えですから、僕の気持ちなんか理解してくれないと思います」
 田島さんの父親が体現しているもの。それは、この社会がフリーターに差し向けている視線そのものかもしれない。
 もし田島さんが餓死していたら、メディアは騒ぎ、社会はおそらく彼に同情を寄せただろう。彼のような人は、死ななければ世間に可視化されないのだろうか。

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