「じゃ、JCキャスト3回目の放送を始めます」。マイクを前に話し始める。放送出演の経験はあるが、まさか自分がラジオ番組の司会を務めるとは少し前までは想像もしていなかった――。
筆者は東京大学先端科学技術研究センターでこの3月までジャーナリスト養成コースの運営を担当していたが、2004年にコースを母体にしたWEBサイト
http://www.journalism.jp/を立ち上げている。ジャーナリストを志しつつ、まだ発表の場を持てていない、そんな参加者のために、そして彼ら以外にも発言の機会獲得に苦労しているジャーナリストたちのために、作品公開のメディアがあれば良いと考えたからだ。
そんなWEBサイトのメニューの中に今年初めから「JC(=Journalist Course)キャスト」というコーナーが加わった。科学ジャーナリストの粥川準二氏と、現役フリーターという独自のスタンスから最近は各紙誌に格差社会問題について寄稿している赤木智弘君(コースの出身者でもある)を出演者に迎え、月に1回、掛け合いで時事問題について論じてもらい、その内容を音声配信している。
これは無線を介する放送ではない。インターネットが電波の代役を果たすネットラジオだ。再生ボタンをクリックすると音声ファイルが開かれ、パソコンを通じて聴ける。こうして音声(だけでなく映像も可)をネット配信する技術は、アップル社が05年に携帯音楽プレーヤーiPodとPCを連動させるソフトiTunesの中にそれを組み込んだことを契機に、急速に普及を果たした。今やこの技術を利用してネット配信を行う草の根ネットラジオ局が急増中だ。
そんなネットラジオ局の末席に連なってまだ日も浅い筆者がネットラジオについて語るのはおこがましいが、無線を使った放送との隔たりの大きさはすぐに実感できた。なにしろとんでもなく参加障壁が低い。必要機材は取材メモ用に使うごく普通のちっぽけなICレコーダーだけ。録音データをパソコンで処理してWEBサーバーにアップし、クリックひとつで番組が聴けるように仕込むのは、ブログ作成に慣れている人ならたやすいだろう。
加えて開局するのに許可を得る必要もない。電波を使わないので電波法は無関係だし、結果的に放送法の支配も受けない。この規制の不在はネットラジオの存在価値を考えるうえでとても重要だ。というのも、日本の戦後放送の「かたち」を決めてきたのは放送法と電波法だったからだ。放送法第3条の1には「放送番組は何人からも干渉され、又は規律されることがない」として放送における表現の自由を謳っているが、そこには留保が付く。同第3条2には「公安及び善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題は、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と放送局が守るべき義務を数え上げている。
ここで問題なのは、放送がこれらの義務に違反しているかを「誰が」判断するかだ。放送局に電波使用の免許を与えているのは総務省であり、電波法第76条で、「総務大臣は免許人が放送法に違反したときは、3箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許可時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる」と定めている。
こうして電波を停められるという生殺与奪の権を握られている限り、放送局は総務省やその背後に連なる有力代議士の顔色をうかがいながらでしか放送ができない。これは日本の放送メディアが政治や行政から独立した第三者性を確保できない事情を物語る。
実はかつては違っていた。1950年施行の、いわゆる電波三法には放送法、電波法と並んで電波監理委員会設置法が含まれており、電波使用の許認可は独立行政委員会である電波監理委員会が担当していた。ところがこの電波監理委員会は52年に廃止され、電波使用の許認可を郵政省(現総務省)が行うようになった。
こうした経緯を問題視し、電波監理委員会の再設を望む声は少なくない。確かにそれは放送が独立性を回復するひとつの対症療法にはなるだろう。だが、問題をあまりに局所的に見ると大局を見誤る危険もあるのではないか。放送の自由や独立性の問題は、放送とは何か、あるいは放送ジャーナリズムとはそもそもどうあるべきかという原理的な位相にまで立ち返って検討する必要があるのだと思う。