岐路に立つネット時代の知財戦略
創作活動の民主化と著作権
現在、創作者の死後50年間保護されている著作権。
それを70年に延長しようという動きに対し、議論が起こっている。既に70年に延長されているアメリカの要望であるとか、国内の知財立国戦略の一環であるとか、さまざまな理由がいわれているが、果たして、誰のための、何のための著作権保護なのか──。

山形浩生 評論家、翻訳家
やまがた・ひろお 1964年生まれ。東京大学都市工学科修士課程およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社勤務。著書に『新教養主義宣言』『新教養としてのパソコン入門』、訳書に『環境危機をあおってはいけない』『クルーグマン教授の〈ニッポン〉経済入門』『ダメなものは、タメになる』『戦争の経済学』など。 |
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いまぼくたちはおもしろい時代に生きている。その昔、創作は実質的に一部の人の独占物だった。でもいまや、それが真の意味で万人のものとなりつつある。
もちろん、これまでだって単に作るだけの創作はだれにでもできた。だれでも絵は描けた。だれでも作文はできたし、音楽を作ったり演奏したりもできた。カメラやビデオが普及したら、だれでも写真を撮ったり動画を撮影したりもできた。そしてみんな、実際にそれをどんどんやってきた。
でも、かつてはそれを鑑賞できるのは自分や友人家族十数名から、せいぜいが学園祭その他で百人いるかいないかだった。コミケ(コミックマーケット、同人誌即売会)や、その他限られた場所でもっと大きな観客が得られることもないわけじゃなかったけれど、それはきわめて限られたケースだった。人が作家になりたいとか、画家になりたい、ミュージシャンになりたいと言うとき、それは単に創作したいというだけじゃない場合がほとんどだ。それを多くの人の目にとまる場に発表し、享受してもらえるところまで含めて多くの人は期待を抱いている。かつてはそうした場がきわめて限られていたからこそ──たとえばテレビ、書籍、雑誌、展覧会等々──アーティストや作家になることにはそれなりの希少価値とステータスもどきがついてまわった。
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それがいまでは、インターネットのおかげで状況はまったく変わった。もはや世間の片隅でだれの目にもとまる可能性すらないまま、不本意に創作を続けているような人はほとんどいない。何か作品を作ったら、それをネットで公開するのはそんなにむずかしいことじゃない。
もちろんネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない。そしてまた売れるもの、話題になるものが必ずしもよいものとは限らない。実際にネットにあがっている個別の作品を見ると、なまじ世の中に出ないほうが世間も当人も幸せだったとしか思えない代物もたくさんある。でも、そうしたものでも享受してもらえる可能性だけは確実に担保される。
いまはそういう時代だ。それはつまり、アーティストであること、作家であることの希少性が薄れつつある時代でもある。最近は大作家がいない、大スターがいない、国民的歌手がいない、なんてことがよく言われる。しばしばそれは、昔の人たちがえらくて器が大きく、最近の連中がダメで小物揃いなのだ、と主張するための議論だ。が、実際にはちがう。みんなの置かれている環境がちがうだけだ。いまは昔よりメディアの数が多くて、そこに登場することのありがたみが薄れただけだ。そしてその傾向はますます高まるだろう。
この背景をもとに、今後の著作権のあり方を少し考えてみよう。
デジタル技術とネットが
提供した新しい可能性
さて、各種著作権制度の善しあしを論じるなら、善しあしを測るための尺度を設定しなきゃいけない。権利は社会が決めるものなので、それは社会全体にとっての善しあしの尺度、ということになる。たぶん本特集の別稿で、著作権のそもそもの意義等の解説はなされているだろうから細かいことは省略するが、結局のところ次の二つのことが実現されるのが本来の狙いだったはずだ。
1 なんでもいいからとにかく創作されるものの幅と量が増えること
2 それがなるべく広く享受・利用されやすくすること
これだけだ。まずはみんながいろんな作品をなるべく多く生産してくれればいい。でも、それが物置や押し入れにしまい込まれては意味がないので、生産された作品はなるべく広く享受され、そしてその結果がさらにフィードバックして創作が増えるようになってほしい。著作権制度はこれを実現すればオッケー。放っておけばいくらでも複製できるものではあるけれど、そこに独占権を認めてあげることによって、みんな収益目当てに創作するだろうし、また収益目当てに放っておいても何とかそれを売り込もうとあれこれ手を尽くすだろう、というわけだ。そしてこの狙い自体はいまもまったく変わっていないだろう。著作権、というよりその背景にある文化政策等々が総体として狙うべきなのがこの二つの目標だ。
ちなみにここに「質の高い作品」というのを入れたい人もいるだろうが、それは却下。何が質が高いのかというのは測るのがむずかしいし、尺度もコロコロ変わるからだ。かつて千利休が、卑しく汚らしい「斗々屋」の茶碗(ととやは元来「魚屋」の意味だが、茶碗の名の由来には諸説ある)に価値を見いだし、ガキの知力を破壊する亡国装置だったはずのアニメがいつの間にやら日本の誇る文化になってしまったように、ある一時点の善しあしの尺度で物事を選別するようなことはかえって有害無益。なに、人の時間は有限である以上、なんらかの選別システムは必ずできるし、その選別システム自体がまた産業にもなるし、文化を活性化させるだろう。たとえば評論家稼業とか各種コンテストとか、あるいはアマゾンやグーグルのランキングなどのシステムに組み込まれたような形式とか。量とアクセス、それだけを考えよう。
さてこの尺度で考えると、各種デジタル技術とネットは政府による各種の文化政策なんかまったくお話にならないくらいのすさまじい成果をあげた。何をかんちがいしたか、愚かな一般大衆が、駄文を書き連ね、へたくそな写真を撮り、退屈なホームビデオでつまらん芸を無数に記録し、それをガバガバとネットにあげて、だれもが見られるようにしてしまっている。最近のガキは本を読まないとか、筆無精だとかいった年寄りの愚痴は広く聞かれるけれど、ネットが広まりケータイメールが普及して、これまでは文盲同然と思われていた世代が(目を覆いたくなるような代物ではあっても)文を書き、それを相互に読んだりしている。コンピューターリテラシーを上げろ、そのために予算をつけろ、といった話もさんざん聞かれたけれど、それをだれも頼みもしないのに、自腹を切って実施してくれている。すばらしい。文部科学省は省内でちゃんと調整して、こうした他の政策目的を見事に実現しているんだから多少の違法利用は大目に見るよう方針を決めればいいのに。
そして、著作権を侵害するような利用だって、商業的な経路ではあり得ないほどの広範なアクセスを実現している。さらには新しい見せ方・聞かせ方の可能性もバリバリ提供し、いまや創作者や関係者の怠慢のために絶版・廃盤等アクセス不可能になっているものまで人の目に触れるようにしてくれた。既存のもののまったく意外な組み合わせが、勝手にミュージックビデオやフラッシュ動画、各種パロディーとなって、既存の作品に存在していた予想もつかないような可能性を縦横に展開してくれている。そして「ニコニコ動画」のように、他人の作った動画に対してみんなが、個別にはどうしようもなくつまらないコメントをつけつつ、それが集まってみると、それ自体がこれまた鑑賞の対象になるという変な状況すら起きている。
さらには、フリーソフトが急激に復活してきた状況がある。ソフトウエアの世界で知的財産権を声高に主張した企業たちは、むしろお互いに訴訟合戦にあけくれ、有益なものを生み出すどころか滅亡寸前となってしまった分野もあった。そこへ共有も改変も自由に認める常識はずれなライセンスのリナックス(※)が登場し、あれよあれよの大躍進をとげた。その後も知的財産のしばりがきわめて緩く、商業利用さえOKというフリーソフトの仕組みは、多くの人の創造力を結集させてすごいソフトウエアを生み出した。インターネット周辺の人たちはそれをまのあたりにした。
すばらしい。で、著作権はこの動きに貢献しているだろうか、というと、むしろこうした多様な活用の足を引っ張ることが多いのはご承知の通り。あそこが似ている、ここが無断利用とケチをつけては訴訟でおどかす。いや、著作権侵害は悪いことなんだから、という話はここではとりあえず無視。何が悪いかというのも社会的な通念で決まるものでしかないからだ。
著作権強化が
生産インセンティブを殺す
今年2月、日本の著作権関連団体の要請を受け、ユーチューブの創設者たちが来日。協議を行ったが、国内の著作権管理団体は「話し合えたことは有意義だったが、著作権侵害防止の具体的な成果には満足していない」とコメントした。写真左:ユーチューブとの協議後、記者会見する国内の著作権関連団体の幹部たち。写真右:動画投稿サイト「You tube」創業者のチャド・ハーレー氏(上)とスティーブ・チェン氏 |
なぜだろう。著作権は本来は、創作者たちが喜々として創作活動を行うのを後押しするためにできたものだったのに、それが逆に作用するようになってしまっている。クリエーターたちはますます窮屈な状況に追い込まれている。映画やビデオの作家は、街角の風景を写すたびに各種商標やロゴを避けなきゃならない(欧米のテレビでよくTシャツや帽子にモザイクがかかっているまぬけな状況はこのせいだ)。昔のビデオを使うには許諾が必要だが、権利保持者と連絡の取りようもなかったりするし、連絡がとれても目玉の飛び出るような大金を請求されるし、見落としがあればあとからすさまじい損害賠償を要求されるようになってきた。こんなんじゃ怖くて作品なんか作れない。
音楽でも、サンプリングやリミックスが非常に重要な技法となっているのに、ヘタに権利が拡大されたために、それがどんどん困難になっている。これはかえって創造をつぶしてないか?
著作権が保護するはずの側はどうだろう。もちろん、著作権その他が有益な場面もある。多額の制作費をかけなくてはできない作品はあるし(たとえば映画)、それが一瞬でネット上に海賊版が出回るようになったらそれが回収できない、というのは、まあ一理あるだろう。でも、著作権侵害も起こる一方で、ネット上ではそれを見つけるのもかなり簡単なんだし、悪いことばかりではない。
さらに、保護することで創作のインセンティブが生じる、というのが理屈だ。でも、実際はどうだろう。たとえばテレビ番組がユーチューブにアップロードされるのを取り締まるのは、これに該当するだろうか。多くのテレビ番組は、放映時点でスポンサーがついて(あるいは受信料をガメて)すでにコストは回収されている。他人がそれをユーチューブにアップしたら次の番組をつくる気が失せるんだろうか? かれらの創作インセンティブを決めるのは、むしろ次のスポンサーがつくかどうかで、それは著作権保護とは何も関係ない。だったらそんなものは保護しなくていいだろう。
だいたい創造のインセンティブというのは、保護してもらえることではないはずだ。他の一般の製品の市場を考えてみよう。企業でもなんでも、どんどん新製品は作る。そのインセンティブを作るのは、保護じゃない。競争にさらしてやることだ。シリコンバレーがなぜITの首都か、という説明の一つとして、人材の流動があまりに激しいために各種のアイデアやノウハウの秘密を守ることが不可能に近く、そのためコピーされるよりはやく技術革新するしかなかった、というものがある。一方、競争がないところはかならず停滞し、殿様商売に陥る。
著作権を強化するということは、どう考えても競争をなくすことだ。だって他の人はそれを使えないことにするんだから。それは明らかに停滞を招くのでは?もっと競争を導入すべきじゃないか。自分の作品を別の人が改訂して、ずっといいものを作ってしまうかもしれない?そう思ったら、作者たちはいまより真剣に創作に取り組むようになる、かもしれない。著作権が延びて収入が長続きすると生活が安定して安心して創作にうちこめる、という創作者たちの変な議論がある。でもふつうは、生活が安定してしまうと人は堕落する。売れてしまってダメになった作家やミュージシャンは数知れない。次の作品をはやく作らないと飯の食い上げだ、という焦りがあったほうが、がんばって作品を作ってくれるインセンティブになるという議論だって十分成り立つだろう。著作権の条件は作者の希望に任せるべき、という議論があるけどそれじゃダメだ。人はとにかく安きに流れたがるもの。どうやったら尻を叩けるかを真面目に考える必要がある。いまの著作権がそれに貢献しているとは思えない。むしろ他の製品では当然存在している、競争という生産インセンティブをかなり殺してしまっているんじゃないか。そしてそれが問題ともされず、むしろそれをさらに悪化させましょうという話が平気でまかり通っている。
過去の資源のためか、
未来の生産性のためか
著作権の保護期間延長に反対、または慎重な文化人64人が、「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」を結成。過剰な保護は文化の振興を妨げると訴えた |
なぜそうなんだろうか。創作物だからというだけの理由で、ほかの通常の生産活動に比べて特別扱いされる理由はあるのか。もちろん、知的財産、各種の著作物には、通常の生産活動でできるものに比べて特殊性がある。簡単に複製できて、自然に劣化しない、という特性だ。でもそれ以上に、ぼくはもともとの創作活動とその発表の場の特殊性があると思う。
すでに述べた通り、かつては創作活動とその発表というのは、ごく限られた人にのみ与えられた特権だった。その特権を得るためには、もちろん多少の実力が必要とされ、それにより競争を勝ち抜くことが必要だったかもしれない。でも……いったい何が「実力」なのか? 「水商売」ということばがあって、いまはまったく意味が誤解されているけれど、本来は芸人稼業を含め、客の人気に所得が直接左右される職業を指す。客人気は水物でまったく読めないから水商売だ。通常、客人気は従来のメディア、つまり観客にアピールできる場へのアクセスを保証するものだった。そして何が人気につながるかわからない以上、そこで通常の意味で競争するのはなかなかむずかしい。人気が出た人は、つまり人々の目玉や耳にアクセスする力を得た人は、往々にして自分がなぜそれを獲得できたかわかっていない。何らかの努力や才能の結果だと思いたいところだけれど、必ずしもそうとは言い切れない。
そこから生じるのは、妙な不安とコンプレックスと選民意識の入り混じったような思い上がりだ。自分たちはなぜか特殊であり、他の連中よりえらいんだけれどでも何か他の連中より不利な立場におかれているから保護されるべきである、という意識。これは著作権延長の議論で延長派にしばしば見られた(る)態度だ。他の人のやらない特殊なこと(創作)を特殊な場(メディア等の媒体)で行っている自分たちは他とはちがうんだから、他とはちがう保護(つまり著作権)がいるのであり、自分たちが活動するためにはその保護をもっとどんどん強化しなさい、という議論だ。
その気持ちはわからないでもない。思い上がった笑止な意見ではあるけれど、でもそう言いたくなる気持ちはわかる。が、この理屈の前提がすでに壊れていることは理解するべきだろう。すでに多くの人にアピールできる場は、特権的なものではなくなりつつある。だれでも潜在的には発表できる。そして小学生がケータイのカメラで撮ったスナップが、ときにはプロの写真なんかより人気を博すことも十分にある。そうなったとき、もはや創作者というのを特殊な存在として特殊な権利で保護する必要も理由も薄れる。そんな保護がなくても、みんな勝手に単なる気まぐれで作品をどんどん作るようになる。
それはたぶん、創作活動の民主化ということなのだと思う。ネット上の各種活動が示してしまったのは、人は著作権なんかでインセンティブをつけなくてもいろいろ創作活動を行うのだ、という事実だ。著作権は活発な創作活動を奨励するために設けられたことになっているけれど、そのためのもっとうまいやり方が明らかにあったわけだ。そうであるなら、著作権のあり方は根本的に考え直さなきゃいけないだろう。保護してあげないと次の創作が出てこない場面をもっとしぼって考えて、そこだけをピンポイントで保護できるような形を検討してやるのが本来の筋ではないだろうか。
ただし現在の著作権や知財保護は、創作活動を奨励するのが狙いではない、という立場もある。これまた現代のおもしろい変化だ。そしてそれは、選択を迫る時代でもある。知的財産が重要だ、知財立国をしなければ、というとき、それがいまある資源だけを大事に囲い込むことなのか、それとも未来のさらなる知的財産の生産を保証するものにすることなのか、というのがその選択だ。もう日本はこれから高齢化して、頭のかたい創造性のない年寄りばかりになる、何も新しいものなんかでてきっこない、ということであれば前者の道を選ぶ手もあるだろう。いまある知的財産を権利でガチガチ守って食いつなぐことだけを考えればいい。でもぼくは愛国者なのでそうは思っていない。まだまだ変なものをいろいろ生み出せるポテンシャルはあるはずだ。もしそうなら、たぶん著作権をどうするかも、それにあわせて考えなくてはいけないだろう。
(※)Linux コンピューターの無償基本ソフト(OS)。1991年、フィンランド・ヘルシンキ大学の学生だったリーナス・トーバルズ氏が開発。それまで企業秘密とされてきたプログラムの設計図である「ソースコード」を公開し、誰でも自由に利用・改良できるようにしたことで、瞬く間に世界中に広まった。
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