今月のおすすめ記事  2008年2月号

辛いのは日本人も外国人もいっしょ

外国人力士を支えるハングリー精神と家族への思い

岡田晃房 ジャーナリスト

おかだ・てるふさ 1957年生まれ、三重県生まれ。早稲田大学卒業。週刊誌を舞台に大相撲、プロ野球などを中心に執筆。『海を越えてきた力人―小錦・曙・武蔵丸』『住所田園調布、職業ホームレス』(共著)。

大相撲力士712人のうち、現在外国人力士は12カ国、61人を占める。
しかも、朝青龍、白鵬を頂点に幕内上位を独占する活躍ぶりだ。
今や彼らは大相撲を支える不可欠な勢力なのだ。
なぜ、外国人は日本の大相撲を目指し、結果を残すのか。
そして、外国人の目には日本の国技・大相撲がどのように映ったのか――。

取材にこたえる旭天白鵬。写真=伊藤 圭

取材にこたえる旭天白鵬。写真=伊藤 圭

「辛いことは外国人も日本人もいっしょなんだけどな。でも、日本人は帰ろうと思ったらいつでも故郷に帰れる。その点、外国人は飛行機に何時間も乗って日本を離れなきゃならない。まず、逃げようなんて思わないよ。それに入門した途端、親方にパスポートを取り上げられるから、逃げるに逃げられない。やるしかないんだ」
 モンゴル人力士の草分け、旭天鵬は外国人力士が日本人を凌駕する大相撲の現状についてそう分析してみせた。
 旭天鵬が旭鷲山ら5人の若者とともに、初土俵を踏んだのは1992年春場所のことだ。当時の大相撲も外国人力士ブームにあった。が、その中心はモンゴルや東欧ではなく、小錦、曙などハワイ勢。巨体を利しての突き押し相撲が主流だった。
 迫力はあったが、相撲が淡泊。小よく大を制す―相撲の醍醐味がないという批判があった。
 相撲に縁のないハワイ出身者が前へ出る相撲に徹するのは当然の結果だった。では、相撲のルーツ、モンゴル相撲の経験のある若者はどうか。一味違う相撲を取るのではないか。そこに目をつけたのが現役時代、相撲巧者の異名を取った大島親方(元大関旭国)だった。
 大島親方は知人のツテを頼りに、モンゴルを訪問。モンゴル全土から集まった屈強の若者にモンゴル相撲を取らせ、眼鏡にかなった6人を日本へ連れ帰った。その一人が旭天鵬だった。
「国を出た頃は社会主義から資本主義に体制が変わったばかりだった。今と比べると、ずいぶん貧しかった。食べ物は安いけど、着る物とか高かったね。俺は長男でしょ。相撲で頑張ることによって、家族の生活が豊かになればいいと思った。もちろん、親は働いていたけど、わずかな収入だったからね」(旭天鵬)
 立身出世を夢見た6人の若者は一方で不安な気持ちを引きずりながら、大相撲の世界へ飛び込んだ。彼らの目に映った大相撲と日本社会は驚きと戸惑いの連続だった。
 モンゴルには自動販売機がなかった。ある日、ジュースを買いに出かけた旭鷲山が自販機に向かって「ジュースください」と話しかけたというエピソードがある。喫茶店に行っても言葉が通じず、注文できない。水だけゴクゴク飲み、帰りしな勘定しようとして「いらない」と言われ、きっと親方の知人の店なのだろうと納得したほどだった。

6人中5人が脱走して、
モンゴル大使館に駆け込む
 日本の相撲とモンゴル相撲の違いにも戸惑った。まわしをつかんだままの状態からスタートするモンゴル相撲に対し、日本の相撲は手足が土俵につくか、土俵の外へ出たら負け。ルールの違いになじめなかった。独特の上下関係にはもっと驚いた。
「モンゴルでは年上が先輩ですが、大相撲の世界は年下でも入門が早ければ先輩になる。年下のやつからああしろ、こうしろと言われると気分は良くなかった。それにも増して困ったのは食生活と言葉です。モンゴル人は肉しか食べないでしょ。日本人にはごちそうの魚やエビ、カニが鍋に入っていても、食べる気にならなかった」(旭天鵬)
 6人はいつも固まっていた。同胞同士で話も通じる。これが言葉の習得を遅らせた。部屋には怖い兄弟子の目もあった。カルチャーショックを心配した大島親方が6人を焼き肉屋で食事させたり、ディズニーランドに連れて行くなど親心を見せたため、孤立はいっそう深まった。思い詰めた揚げ句、1人を除く5力士が脱走してモンゴル大使館に駆け込んだのは半年後のことだった。大島親方夫妻が駆けつけ、説得したが、「故国に帰りたい」の一点張り。旭鷲山ら2人が部屋に戻ったが、旭天鵬ら3力士はそのままモンゴルへ帰国してしまった。その年の秋場所、大島親方は大使館から戻った旭鷲山らを里帰りさせた。その際親方も同行し、旭天鵬を説得して再び来日させるが、一時はやめる決心すらしたのだった。
「『辛かったら帰ってこい』と母に言われました。でも、同時に『ほかの人でもできるんだから、お前にもできるだろう』とね。それから、大変なこともありましたよ。しかし、家族の生活が変わっていくのがうれしかった。俺の仕送りで家族の生活が良くなっている。そう実感できることが相撲を続ける原動力かな。相撲が好きだし、相撲しか知らない。来日して15年たつけど、あと5、6年は続けたいね。大関、横綱は望めないかもしれないが、常に上を目指す気持ちで土俵に上がりたい」(旭天鵬)

九州場所の番付で東の正横綱になった白鵬

九州場所の番付で東の正横綱になった白鵬

 同じモンゴル人でも横綱白鵬は、メキシコ五輪で銀メダル(レスリング重量級)を獲得し、モンゴル相撲の横綱に君臨した偉大な父と元外科医の母を持つサラブレッドだ。
「運動はバスケットボール、モンゴル相撲と何でもできました。走るのも速かった。旭鷲山関のお父さんとうちの父が知り合いで、日本行きを勧められてチャレンジを決めました。7年前の10月のことです」
 白鵬は振り返る。
 来日すると、仲間6人とともに大阪にある旭鷲山が知る倉庫会社で相撲について基礎を学んだ。いっしょに来日した若者たちは各部屋の親方衆が次々とスカウトしていった。しかし、当時の白鵬は175・5センチ62キロの貧弱な体。
「誰も声をかけてくれないのでもう帰ろうと思っていた矢先、うちに来いと言ってくれたのが先代の宮城野親方(元幕内竹葉山)でした」(白鵬)
 まず、体作りから始めなければ相撲にならない。親方は白鵬が初土俵を踏む翌年3月までひたすら食べさせ太らせた。幸い、好き嫌いはあまりなかった。食文化の違いをものともせず、ちゃんこを食べた後でも焼き肉丼をぺろりと平らげる大食漢だったことが白鵬を大きく成長させた。

白鵬が日本で最初に覚えた
夏川りみの「涙そうそう」
 が、白鵬も順風満帆だったわけではない。
「弟子は10人足らずの小部屋でした。だからイジメみたいなことはなかった。でも、相撲部屋って歴史があり、しきたりがあって、礼儀や挨拶には厳格です。稽古場では兄弟子に勝つことはありましたが、普段は怖くて近寄れませんでした」(白鵬)
 彼を支えたのは偉大な父の存在だった。
「辛かったら帰ってこいと母は言います。でも親に恥をかかせるわけにはいかないじゃないですか」(白鵬)
 早く相撲を覚えるには、いち早い言葉の習得が必要―そう考えた白鵬は積極的に日本語を覚えた。
「モンゴル語と日本語の辞書を常に傍らに置いて分からない言葉があると調べ、ノートに書き留めました。一番良かったのはカラオケですよ。日本に来て最初に覚えたのが夏川りみの『涙そうそう』。すばらしい歌だと思いましたね。カラオケのほかによく足を運んだのが映画。映画を観る時はいつも日本語が達者な知人に付いて行ってもらいました」(白鵬)
 日本語は話せるが、まったく読み書きはできないという外国人力士は多い。しかし、白鵬は違う。今では簡単な漢字なら読むことができ、新聞記事もおおむね理解できるほどに上達した。
 初土俵から約3年で幕内昇進を果たし、その後2年で大関、07年夏場所後には横綱に昇進するスピード出世。快挙を成し遂げた背景には並外れた素質があるに違いない。
 本人は功成り名を遂げた理由として、
「体が大きくなったこと。稽古したこと。そしてちゃんと休んだこと」
 の三つを挙げる。そして、強靭な足腰を持つ理由として、祖国モンゴルの野生味あふれる生活を指摘した。
「モンゴルの若者は馬に乗って草原を走るのが大好きです。水を運び、家の仕事を手伝って肉を食べる。そんな生活が足腰を鍛えるんです」
 しかし、それだけではないと兄弟子の一人は言う。
「下の頃から物凄い負けず嫌いだった。転がされても、転がされても、もう一丁という気迫があった」
 もう一つ忘れてはならないのは先達の存在だろう。旭天鵬らモンゴル人力士の草分けが嘗めた辛酸、苦労の上に第二世代の白鵬らの活躍はあるのだ。
 モンゴル人にとって「故国は相撲のルーツ」というプライドは高い。毎年7月には「ナーダム」というモンゴル相撲の祭典が行われ、国じゅうが沸く。
「でも今はモンゴル相撲と並んで日本の相撲が大人気なんですよ。子供たちは日本の相撲の基礎を習って日本へ来るチャンスを待っている。現在、外国人力士は1部屋1人の規定になっているが、これからさらにモンゴルの若者が日本へやってくるかもしれない」(白鵬)
 とはいえ、外国人力士が増えれば増えるほど、朝青龍問題のようなトラブルが起こる可能性は拡大する。1988年秋、南海龍の無断休場問題が起き、一時、各部屋が外国人力士のスカウトを自粛した。02年からは「1部屋1人」に制限されている。
「横綱に日本人も外国人もない。頂点に立つ力士は毎場所、自分との闘いですよ。その意味で朝青龍の大相撲への恩返しはただファンに頭を下げるだけでなく、綱の責任を果たすことです」
 こう語るのは元十両の星誕期(陸奥部屋)である。星誕期は南米はアルゼンチンの出身。旭天鵬に先立つこと5年、1987年夏場所の初土俵だ。祖国では柔道とサッカーが盛んだった。星誕期は柔道をよくし、相撲を習っていた。
「もともと運動が大好きだった。体格もいいし、日本の大相撲に挑戦して自分を試してみたかったんです。母一人、子一人。親を置いていく不安はあったが、成功したらお金にもなる。3年やって結果を残せなかったら国に帰ろう。そう決めて日本へ来ました」
 流暢な日本語で星誕期は語る。ちなみに、星誕期は言葉をハンディと思ったことがないという。

親を思う気持ちに日本人も
外国人も変わりない
1992年、現役当時の星誕期(右)。星安出寿とともに陸奥部屋のちゃんこを用意する

1992年、現役当時の星誕期(右)。星安出寿とともに陸奥部屋のちゃんこを用意する

 星誕期が来日した頃は小錦の全盛時代だった。実は小錦は日本に滞在する外国人力士のために、本場所の千秋楽がはね、部屋の打ち上げパーティーが終わってから外国人力士だけのささやかなパーティーを開いていた。ディスコやクラブ、ファミレスが会場だった。パーティーには一つだけ規則があった。それは、「どれだけ飲んで暴れてもいい。その代わり絶対、一般市民に手を出すな」ということだった。
 集まった力士はお互い、言いたいことを言い、ストレスを発散した。なかには涙をぼろぼろ流し、力士同士酔っ払って踊りながら殴り合う光景もあった。
「全部、大関(小錦)のポケットマネーで賄っていましたね。人それぞれ、言えないプレッシャーってあるじゃないですか。それを忘れてみんなで飲もうというのが趣旨でした。そこではね、ストレス発散もさることながら、自分たちが知らない大相撲のしきたりとか、いろいろ先輩たちに教えてもらった。とても助かりましたよ」(星誕期)
 入門して数年たつと、部屋の主が代替わりした。しかし、新しく師匠になった兄弟子は博打好きだった。弟子は一人欠け、二人欠け、櫛の歯が欠けるように力士は減り、十両に昇進した星誕期に付け人もいないほどだった。星誕期の土俵も部屋の衰退と相まって生彩に欠けるようになった。やがて、師匠は部屋を投げだし、苦労人の大関霧島が引き継ぐ。
「一時はどん底でした。いくらやっても親方には金をもっていかれるし、関取であるのにちゃんこの給仕まで自分でやらなければならない。でも、霧島関が親方になって心機一転巻き返した。長らく幕下に低迷したが、十両に復帰して土俵をまっとうできた」(星誕期)
 星誕期の話は日本人力士以上に日本人らしい。力士の稽古量の低下について、こんな見解を示した。
「自分たちの頃から見ると、今の力士はずいぶん稽古量が減った。でもね、やっている人は必死なんですよ。この野郎サボりやがってと自分たちが思うことでも、彼らは辛いと感じている。俺たちの時代も同じでね。こりゃ大変だと思うことを一昔前の力士は当たり前のようにやっていた。大切なことは怖い兄弟子が稽古に目を光らせていることです。今かわいがりについてあれこれ言われているけど、怖い兄弟子がいれば無用なイジメやリンチは起こらない。自分が(現役)晩年の頃は部屋でこの怖い兄弟子の役を務めました」(星誕期)
 現役時代、星誕期は毎月祖国に残してきた母親に送金していた。
「部屋にいればお金がかからないじゃないですか。本場所手当、タニマチからもらったお小遣い。みな送りましたよ。おかげでこっちへ来てわずか3年のうちに、向こうで中古のマンションが買えた。もちろん、それからも仕送りは続けましたよ。今母は67歳で悠々自適の生活ですが、自分が送っていたお金をよりによって俺の名義で貯金していたんですよ。それを知った時はさすがにジーンときましたね。ところが、日本の若い力士には携帯電話の料金を親に払ってもらっている子が少なくない。大相撲の力士はプロですよ。こんな甘えがあっては厳しい稽古に耐えられない。親を思う子の気持ちや子を心配する親の気持ちに外国人も日本人もない。日本人は大切なものを失ってしまった。この差が成績にも表れているのでしょう」(星誕期)
 かつて小錦は「土俵に上がれば自分が一番強いという思いで戦っていた」と語っていた。そうした勝負師としての意識は大横綱千代の富士の土俵観にも通底し、今また朝青龍にも通じるものだろう。
「辛いのは日本人も外国人もいっしょ」
 旭天鵬は言い、白鵬もきっぱり語る。
「土俵に上がったら、誰にも負けたくない。そのためには稽古ですよ」
 勝負師に日本人も外国人もないのだ。だが、「俺が一番」と心底そう思える日本人力士は果たしているだろうか。朝青龍の稽古不足が嘆かれるが、日本人力士の稽古量はもっと少ないのだ。
 日本人力士は国技の名にあぐらをかいている。外国人力士がそう見たとしても不思議はない。国技大相撲の主力は確実に外国人へと移行しつつある。

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