今月のおすすめ記事  2008年3月号

短期集中連載 1

無菌室ふたりぽっち

白血病と闘ったカメラマンと記者

今田 俊 週刊朝日記者

いまだ・しゅん 1968年、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業。92年、資生堂入社。95年、主婦と生活社の「週刊女性」編集部に。2001年に朝日新聞社入社。以後、「週刊朝日」編集部、編集局東京経済部を経て、07年3月から「週刊朝日」編集部。

「ようやく会えた」。初めて会ったエンドーくんは、棺の中で目を閉じていた。
2006年夏、僕たちは急性骨髄性白血病を発症した。
それから同じ時間、同じ病気と闘ってきた。
まったく知らなかった2人だったのに、僕たちはお互いを励まし合い、支えにしてきた。
しかし、07年7月14日、遠藤俊介くんは、カンボジアに永遠の旅に出た。29歳だった。
そして、39歳の僕は今もまだ白血病と闘っている――。

◆2006年7月下旬
 ポツリと口内炎ができた。
 下唇の裏側に2ミリほどの大きさだった。2、3日も我慢すれば自然に治るだろうと思っていたが、白いポッチは日に日に大きくなり、食事をするたびに、ひどい痛みに耐えなければならなかった。
 あまりにも治りが遅いので、「口内炎ができるのはビタミンCが足りないから」と、コンビニに走り、ビタミンCを含んだ飴やサプリメントを購入した。
 口内炎が治癒しないまま8月に入ると、今度は歯茎が痛み出した。じんじんと熱を持っているような感じで、出血もいくらかあった。歯肉炎か歯槽膿漏になってしまったかなと思い、今度はドラッグストアで、「生薬配合」と書かれた塗り薬を買ってきて、綿棒で歯茎に擦り込んだ。口内炎と歯肉炎で、口の中は大騒ぎだったが、どちらも我慢できないほどの痛みではなかった。仕事はもうすぐ夏休みに入る予定だ。口内のトラブルは、休み前の忙しさのせいもあるかもしれない。あと少し頑張ろう。そう、あと少し。
 そのころ僕は、朝日新聞社の編集局経済部に在籍していた。その年の4月に出版本部の「週刊朝日」編集部から異動し、38歳にして初めての新聞記者をしていた。担当は自動車、造船重機業界だった。

◆8月13日、夏休み最後の日
 06年の夏はとても暑かった。1週間の夏休みは妊娠8カ月の妻・紀子と4歳の娘・珠希を連れて岩手の実家で過ごし、夏休みが終わる2日前に東京に戻っていた。
 明日から仕事が始まるという日曜日、その日も午前中から30度を超える猛暑だった。夏休みになると、自宅近くの百貨店の屋上に、特設の子供用プールがオープンする。大人の膝くらいの深さで、小学校の25メートルプールの半分くらいの大きさはある。
 正午を過ぎた頃、珠希と屋上プールに出かけた。プールは子供たちであふれていた。水着に着替えた娘を送り出し、僕は芝生に寝転がった。日差しはジリジリと刺すように強く、帽子を被ってこなかったことを後悔した。
 太陽の熱にさらされながら、プールを眺めていると、何だか胸のあたりがムカムカとしてきた。気持ちが悪い。熱射病にやられたかなと思った。娘に声をかけて、プールから上がらせ、冷房の利いた百貨店の中に入った。イスが見あたらなかったので、階段に腰を下ろした。しばらくたってもあまり回復しなかったので、自宅に電話をかけて妻に車で迎えに来てもらった。妻は顔色の悪い僕の顔を見て、「帽子を被っていかないからよ」と言った。

◆8月14日
 仕事が始まった。いつものように満員電車に乗っての出勤だ。つり革につかまって立っていたら、一瞬目の前が真っ暗になった。膝がガクリと落ち、危うく倒れそうになった。立ちくらみだった。立ちくらみなんて、中学生のとき朝礼の最中、貧血で倒れたとき以来だ。
 昨日の熱射病を引きずっているのかもしれない。多少吐き気もある。風邪か? そういえば、妻が娘の幼稚園でノロウイルスが流行していると言っていた。ノロならやっかいだな。だからといって仕事を休むほどではない。幸い今週はお盆ウイークで、ほとんどの企業は休みに入っている。経済部記者の取材もそれほど忙しくはない。なんとかこなせるだろう。
 神田のオフィスに到着し、夏休み中にたまったメールの処理を済ませ、山積みになった新聞の切り抜きを整理する。いつもは、流しそうめんのようにやってくる企業からのリリースも今日は静かなものだ。その頃には、吐き気も治まり、立ちくらみのことなどすっかり忘れていた。
 正午近くになり、ちょっと手が空いたので、築地の本社にある会社の診療所に行ってみることにした。立ちくらみの治療ではなく、定期的にもらっている偏頭痛の薬を処方してもらうためだ。僕は子供のころからの偏頭痛持ちで、頭痛がやってくると動いているだけでもつらく、まったく仕事にならない。頭痛の発作がやってくる直前に薬を飲んでおくと、最悪の状態を避けられるのだ。
 診察室でいつものように、偏頭痛の処方箋を書いてもらいながら、「今日の朝、通勤途中の電車の中で立ちくらみがしたんですよ。風邪ですかね?」と医師に話した。医師は、「では採血しておきますか」と言い、看護師に指示した。
 採血が終わると、「明後日の16日ごろに結果が出ますので連絡します」と告げられた。この採血が僕の運命を変えた。

◆8月15日
 正午ごろ、携帯電話が鳴った。会社の診療所からだった。「昨日の採血結果が出たので、診療所に来られますか」と言う。あれ、結果は明日じゃなかったのか? 「できるだけ急いで来てほしい」とせかされるように言われた。良くない結果なのかもしれないと、何となく嫌な感じがした。仕事を途中で切り上げ、診療所に行った。診療所の受付で名前を告げると、何かばたばたとした様子で、すぐに診察室に通された。
 医師から採血の結果が良くなかったと告げられた。やっぱりノロだったのか?
「どんな病気ですか?」
「白血病の疑いがあります」
 抑揚のない声でそう言われた。
「はあ」
 そんな返事をしたと思う。
 医師からすぐに大きな病院で検査を受けることを勧められた。慶応大学病院から派遣されていた医師だったので、同じ慶応の血液内科の医師への紹介状を書いてもらい、明日受診することになった。
 特別な感情はわいてこなかった。だって「疑い」でしょ? 会社の診療所の採血検査だけで、こんな重大な病気がわかるの? 白血病って不治の病なんでしょ? 夏目雅子も、アンディ・フグも本田美奈子も白血病で死んだんだよな。もしかしたら自分も死ぬのか? 本当に死んでしまうのか……。
 築地の本社から神田に戻っても仕事が手に着かなかった。体調はこれといって悪くなかった。それでも、白血病という言葉が重くのしかかった。
 会社のパソコンで、「白血病」を片っ端から検索した。たくさんの人が闘病記を書いていた。闘病半ばで途切れてしまった日記。何年にも及ぶ抗がん剤治療、骨髄移植の失敗……。初めて知ることばかりだった。病気のことを知れば知るほど、いいことは何ひとつない、待っているのは死という、恐ろしい病気だという思いに支配された。
 何よりも5年後の無病生存率がわずか30%しかないという現実に打ちのめされた。そうか、白血病になったらほとんど助からないんだな。何とも言えない感情が襲ってきた。机に座って仕事なんかできなかった。オフィスを出て、近くにあるカプセルホテルに飛び込んだ。休憩プランで3千円の料金だった。狭いカプセルの中に飛び込んで、白くて硬いシーツにくるまった。やっと一人になれた。僕は泣いた。まだ白血病と決まったわけじゃないのに。死ぬと決まったわけじゃないのに、大声で泣いた。
 ごめんな、珠希、紀子、そしていずれ生まれてくるお腹の中の赤ちゃん。パパ、死ぬかもしれない。

◆8月16日
 14日から妻は、娘を連れて埼玉の実家に帰っていたが、昨日の僕の検査の結果が思わしくなく、今日改めて慶応病院で検査を受けると連絡していたので、この日、川崎の自宅に戻ってきていた。
「白血病の疑いがある」と告げられたことは話さず、「血液系の病気みたいだ」とだけ知らせていた。
 慶応病院で僕を診察してくれたのは、岡本真一郎准教授だった。白血病治療においては著名な医師だ。事前に簡単な採血を済ませ、診察室前の待合室で順番を待つ。とても長い時間待たされたような気がする。
 やがて診察室に通され、部屋の中央に置かれた丸イスに腰を下ろすやいなや、岡本先生は言った。
「白血病ですね。急性骨髄性白血病です」
 これががん告知かというくらい、あっさりとしたものだった。認めたくはないものの、ある程度の覚悟ができていたのかもしれない。病名を告げられても、動揺はなかった。
 岡本先生から、すぐに入院が必要なこと、病気の治療には4カ月ほどかかること、もちろんその間仕事はできないことを聞かされた。
「何か聞きたいことは?」と言われて、一番聞きたいことを聞いた。
「治りますか?」
「まだ若いし、大丈夫です」
 と岡本先生は言った。
 4カ月ということは、年内は仕事ができなくなる。まず、会社の上司に報告して入院のための休みを取らなければならない。取材先への連絡はどうしたらいいだろう。机に残した荷物はそのままでいいのか……。そんなことを考えながら、病院からタクシーに乗って、神田のオフィスに向かった。その途中、車内から自宅に電話をかけた。すぐに妻が出た。
「どうだった?」
「うん、……よくなかった。とりあえず即入院みたい」
「何の病気なの?」
「よくないよ。詳しいことは後で話す。早く帰るから」
 2カ月後に出産を控えた妻には、それだけしか話さなかった。
 職場に戻って、上司に病気のことを告げ、長期の入院になってしまうことを詫びた。職場を中途半端に放り投げてしまう無念さは大きかったが、上司や先輩たちからは「治療優先でやってくれ」と温かい言葉をかけてもらった。
 夕方近くに自宅に戻った。妻は僕の話を待っていた。
「白血病だった。すぐに入院だってさ」
 といつもの会話のようにぶっきらぼうに言った。妻はあまり驚いた様子を見せなかった。もしかしたら、最悪の事態を想定していたのかもしれない。幼稚園から帰ってきていた娘の珠希が妻にじゃれついている。
「ママね、さっき泣いてたんだよ」
 妻の顔を見ると目が真っ赤だった。 
「どんなふうに体調が悪かったの?」
 淡々と聞いてくる妻に、僕はここ数日の異変を話した。妻は静かに現実を受け止めているようだった。僕もできるだけ冷静に話した。ちょっとでも感情を込めると涙が出そうだった。
 僕は必要なことだけを話すとベッドのある部屋に逃げ込んだ。妻の泣いている声が聞こえた。それからしばらくして、妻がお互いの実家に電話をかけている声がかすかに聞こえた。
 白血病という言葉の持つインパクトは大きい。『世界の中心で、愛をさけぶ』をはじめ、たくさんの悲劇の物語の題材になり、不治の病の代名詞のようになっている。発病前に持っていた僕の白血病のイメージも、そう大差はない。白血病は血液のがんである。造血幹細胞が悪性腫瘍化して、正常な血液をつくることができなくなり、芽球といわれる未成熟な血球を体内に送り出す。正常な白血球が減少すると免疫力が低下し、正常な血小板が減ることで止血作用が弱まる。治療をしなければ、最終的に死に至る。発病の原因はわかっていない。
 ひとくちに白血病といっても、その種類は多岐にわたる。まず骨髄性とリンパ性。一般に成人の白血病は骨髄性が多く、子供の場合はリンパ性が多い。骨髄性の白血病も、慢性と急性に分けられる。
 急性骨髄性白血病は、フランス、アメリカ、イギリスの3カ国からなる白血病の研究機関であるFABの分類で、M0からM7まで八つの型に分けられ、それによって治療法や、予後の良、不良が決定される。僕の場合、M2の遺伝子転座なしという型だった。
 06年の人口動態統計によると、日本では年間約7400人が白血病で亡くなっている。発症率は10万人に3、4人で、満員の東京ドームの観客の中に1人は、白血病患者がいるという計算だ。

◆8月18日
 入院生活が始まった。
 入院してすぐに骨髄穿刺(通称マルク)という検査をした。白血病患者には欠かせない検査で、骨の中心部にある骨髄液を採取し、骨髄組織を調べるのだ。腰のあたりにある腸骨(胸骨の場合もあり)にキリのような太い注射針を刺し、骨の中から骨髄液を吸い出す。これがすこぶる痛い。もちろん麻酔はするのだが、骨の内部にまで麻酔は効かない。グリグリと骨に注射針が食い込んでくると、骨がきしみ鈍痛が走る。骨髄液を抜かれる瞬間は、「魂が吸い取られる」と表現する被験者も多いように、思わず声をあげたくなるような痛さだ。シーツを握りしめながら耐えるこのマルクを、以後何度も経験することになる。
 緊急入院ということで、安い病室がなく、高価な個室に通された。1泊3万6750円。トイレ、冷蔵庫、液晶テレビ、専用電話完備のホテル並み。これからの出費を考えると、こんな豪華な部屋に何カ月も入院するわけにはいかない。一日も早い部屋の移動を病院にお願いした。

◆8月21日
 妻とともに担当医師から今後の治療についての説明を受けた。先日のマルクの結果、血液中の芽球、いわゆる白血病細胞の割合が73%であることがわかった。つまり血液の大部分ががん細胞に侵されていたのだ。ちなみに健康な人の血液中の芽球は2%未満である。このまま放置していたら、あと2カ月で死んでいたそうだ。
 治療は、まず抗がん剤による化学療法を行い、血液中の白血病細胞を5%以下にまで死滅させることを目指す。この状態を「寛解」と呼ぶ。寛解になる確率は90%だという。その後は、地固め療法と呼ばれる抗がん剤治療を3期間、続いて維持療法と呼ばれる抗がん剤治療を6期間行う。すべてが無事に終わっても、約2年はかかる。そしてどの治療段階においても、感染症などによる死亡のリスクがあることを告げられた。

◆8月23日 寛解導入療法
 今日から抗がん剤の投与が始まった。
 中心静脈カテーテルという細い管を首の静脈から挿入し、1週間ぶっ通しで点滴による投薬を行う。抗がん剤は2種類。イダマイシンという、いかにも体に悪そうなオレンジ色の液体を3日間、キロサイドという透明な液体を7日間である。
 看護師から嘔吐、下痢、便秘、口内炎、発熱、脱毛などの副作用の説明をひととおり受けたが、この時点では実感はともなわなかった。だが、やがてこの副作用に苦しめられることになる。

●エンドー帝国 8月26日
「見たことがないきれいな人がいるな」
 フリーカメラマンのエンドーくんが、婚約者の高瀬友香さんと初めて会ったときの感想である。
 エンドーくんが通っていたカンボジアの勉強会に、この日初めて友香さんが出席していた。友香さんはその年の6月、初めてカンボジアを訪れて、すっかりその魅力にとりつかれた。「将来はカンボジアで仕事をしたい」と、カンボジアについての勉強を始め、定期的に開かれている勉強会に参加することにした。
 そのころエンドーくんは、日本のカンボジア好きの間ではちょっとした有名人だった。SNSサイト「ミクシィ」のカンボジア関連のコミュニティーで積極的に発言したり、カンボジアで撮った写真を発表したりしていたころだった。誰より、カンボジアに詳しかったし愛していた。
 その日、勉強会が終わると、一行は近くの店で打ち上げをすることになった。店に向かう途中、エンドーくんは初対面の友香さんにぴったりとくっつき、矢継ぎ早に質問した。「一ノ瀬泰造は好きですか?」「NGOをどう思いますか?」「本当に来年カンボジアに住んじゃうんですか?」「年は? 結婚は?」
 身長174センチ、80キロの体格で、声も大きなエンドーくんに、友香さんは圧倒された。それでも不思議と嫌な気はしなかった。帰り際に、エンドーくんは「一度食事でも」と友香さんを誘った。

◆8月24日~9月21日 寛解導入療法
 抗がん剤は、白血病細胞だけを選んで殺すことはできない。よって血液中の健康な成分もろとも抹消することになる。抗がん剤の投与から約2週間で、僕の血液中の白血球はほぼゼロになり、血小板は正常値の10分の1、赤血球も正常値の半分以下にまで減少した。
 この間に、インフルエンザや肺炎など、何らかのウイルスや細菌に感染してしまうと、白血球が減少した体には、致命的な症状になってしまうことがある。こういった感染を防ぐために、治療は無菌室で行われる。枕元にアイソレーターという畳2畳ぶんくらいの大きな換気装置があり、始終うなりをあげている。ベッドはお姫様ベッドのようにビニールのカーテンで覆われ、部屋の窓の開閉もできない。外からウイルスを持ち込む面会も基本的にはできない。身の回りの世話は、マスクをつけた妻がしてくれた。
 抗がん剤の投与が始まって3日目。胃のムカつきがひどく食事をとることができなくなった。常に乗り物酔いをしているような状態で不快な気分が続く。僕は偏食気味で、もともと食べられないものが多い。お世話になっている慶応病院にはもうしわけないが、病院食はお世辞にもうまいとはいえない。加えて、白血球の値が下がると、無菌食といって、すべての料理がラップにくるまれ、電子レンジで加熱され無菌化したものが出される。のり佃煮やミカンまでアツアツで出てくるのだから、食欲をなくしてしまう。
 長い間無菌室に入っていると、世の中との接点はテレビだけになってしまう。そのころのテレビは、早稲田実業高校の斎藤佑樹投手の「佑ちゃんフィーバー」がすさまじかった。おかげで佑ちゃんのことなら、家族のことから行きつけの店まで、嫌というほど詳しくなってしまった。
 9月1日、医師から寛解導入療法後の治療方針の説明をうけた。抗がん剤治療の結果、寛解、つまり骨髄液中の白血病細胞が5%以下になったなら、このまま化学療法を続ける。もし、寛解に達していなければ、骨髄移植の準備を始めたいということだった。
 抗がん剤による化学療法では、白血病細胞を完全に撲滅することはできない。できないというか、現在の医学では完全に白血病細胞が死滅したかの確認ができないのである。そのため、白血病細胞を限りなくゼロに近づけるために、繰り返し抗がん剤治療を行う。その結果、5年たっても再発しなければ、治癒したとみなされる。
 骨髄移植は白血病治療の最大にして最終兵器である。化学療法に比べ、治癒率が高く、治療期間も短くて済むというメリットがある。半面、移植までの前処置に、大量の抗がん剤投与や放射線を浴びるため、患者の肉体に大きな負担がかかる。移植後1年以内では20~30%ほどの死亡リスクがあり、移植がうまくいったとしても、移植片対宿主病(GVHD)と呼ばれる免疫反応で、皮疹や内臓障害などの後遺症のリスクをともなう。
 白血病患者は、この化学治療か移植かという命の選択に悩まされる。過去のデータから、移植は最初の寛解時に行ったほうが成功率が高い。再発してからの第2寛解や年齢が上がっていくと成功率は下がっていく。
 またドナーの確保という問題もある。兄弟間でHLAという白血球の型が一致する確率は25%、それ以外は骨髄バンクに頼らなくてはならない。仮に骨髄バンクでドナーを見つけられても、移植までには通常半年の期間を要することになる。その間、自分の体を移植できる状態(寛解)に保てるとは限らない。また、移植に成功したとしても、大小さまざまな障害を抱えることも多く、発病前と同じレベルの生活を取り戻せるという保証はない。
 9月21日、僕は38歳の誕生日を無菌室で迎えた。病気のせいもあってか、昔のことをよく思い出すようになった。自宅から小学校まで続く長い桜並木があった。今も同じ桜が、幹を大きく太らせて並んでいる。来年の桜は見られるのだろうか。娘の珠希が小学校に入学するのは再来年だ、それまで生きていられるのか。珠希から、誕生日プレゼントの手作りのメッセージカードが届いた。
「ぱぱ がんばってね はやくげんきになって あそぼうね」
 泣くまいと我慢しても、涙があふれてきた。

写真
入院中のエンドーくん
●エンドー帝国 9月28日
 エンドーくんが体の異変に気が付いたのは、右手首にできた皮膚がもりあがったような小さなふくらみだった。痛くもかゆくもなかったが、ふくらみの数は、みるみる体じゅうに増えていった。
 交際を始めたばかりの友香さんに、Tシャツをまくりあげたエンドーくんは、真剣な表情でこう聞いた。
「何の病気かわからないし、命にかかわるかもしれないけど、いいの?」
「私はついていくと決めてるから」
 友香さんが迷いなくそう答えると、今度は冗談っぽくこう言った。
「こんなにお腹も出てるけどいいの?」
 友香さんは笑って頷いた。ふたりとも、それが白血病の症状だとは思いもしなかった。最初は皮膚の病気だと思い、皮膚科に行ったが、すぐに血液内科を受診するように言われた。地元の横須賀共済病院で27日に骨髄検査を受け、翌日、仕事を休んで駆けつけた友香さんと一緒に結果を聞きに病院に行った。
 友香さんは、この日のことを思い出すことがなかなかできない。
「彼が一人で告知を受けるというので私は待合室で待っていました。私は彼から病名を聞いた後の記憶がないんです。世界が足元から崩れ落ちるというのは、こういうことかという感じで、立っているのがやっとだった……。後で聞いたのですが、彼は事前に病院から病名をにおわされていたので、覚悟はしていたそうです」
 そして、エンドーくんも、そのときの様子を、ブログ「エンドー帝国」で書き留めていた。
〈9月28日。病院へ。血液内科の前で待つ。名前を呼ばれて診察室へ。やっぱり白血病。通常は皮膚に出ない症状が皮膚に出ている、「非常に珍しいタイプ」の急性骨髄性白血病と診断され、緊急入院することに。「白血病だ」そう思ってれば、どんな状態でもショックは少ないかと思ってた。「このままほっといたら、年内もたなかったかも」そう言われてゾッとした。確かに最初は先生の説明をちゃんと聞けていた。でも、先生の一言で涙があふれた。「エンドー君の食生活が悪かったとか、カンボジアに行ったからこんなになったってことじゃないから」わんわんと泣いてしまった。(略)完治率はぶっちゃけ3~4割だそうなんで、厳しい闘いになりそうです。(略)目を腫らして病室を出る。友香さんに、結果を報告する〉
 エンドーくんは1977年10月9日、神奈川県横須賀市で、義男さん、れいさん夫妻の長男として生まれた。
 母親のれいさん(61)は、「小さいころは体は丈夫でしたが、言葉はほかの子に比べて遅かった」と言うが、小学校に入学するころには、ボーイスカウトの下部組織であるカブスカウトに入って活動するなど一人前の男の子になっていた。
 人一倍正義感の強い少年だった。小学1年のころ、禁止されていた校庭の遊具で遊んでいた上級生を注意して、生意気だと殴られ、血だらけになって帰ってきたこともあった。大のおじいちゃん子で、2歳になるかならないときから、朝の6時には久里浜の操作場に一緒に行って、2人で飽きずに電車を見ていた。
 中学2年のとき、父親を事故で亡くした。その3カ月後にはおじいちゃんを亡くしている。
「同じ年に大事な人を2人も亡くしましたからとてもショックだったと思います。それからは、父親代わりとなって5歳年下の弟の亮介の面倒をよく見てくれました。弟の入学式や卒業式には、俊介がすべて出席しましたから」(れいさん)
 母親の苦労を察してか、反抗期もなく、手のかからない子供だったという。端から見ていると、ちょっと変わっていると思われるくらい仲のよい親子だった。
「大学生の頃、ふざけた俊介が私を持ち上げて、お尻から洗濯機の中に放り込んだんです。私はお尻がスッポリ入って抜けなくなって……。それをみんなにおもしろおかしく話すんですよ(笑い)」
 中学を卒業すると、地元の公立高校に進学した。高校では、ブラスバンド部と写真部に入った。カメラに興味を持ったのは、中学の時、おじいちゃんにもらったミノルタの一眼レフと、高校の写真部を舞台にしたマンガ、「究極超人あ~る」にハマったのがきっかけだった。
 在学中に、新聞やカメラ雑誌の懸賞に写真を応募するようになり、佳作などを受賞することもあった。
 専門学校の映像学科で2年間学び、テレビ番組のADや写真現像ショップなどでアルバイトをしてお金をためては、香港やカンボジアといったアジア諸国に写真を撮りに出かけていた。
「写真の道を諦められずに、専門学校を卒業してから日大芸術学部などを何回か受験したんです。結局、23歳のときに東京工芸大に合格しました。そのときは私も嬉しくて泣きました」(れいさん)
 東京工芸大を卒業したときは、既に27歳になっていた。卒業後は、フリーカメラマンとして音楽雑誌「オリコン」で芸能人の記者会見などを撮影するかたわら、写真現像ショップでのアルバイトも続けていた。
 06年4月、東京工芸大の恩師で、カメラマンの大石芳野さんの紹介で、「AERA」編集部の専属カメラマンとして2年間の契約を結んだ。
「『俺もとうとうサラリーマンか。これで自由にカンボジアには行けなくなるな』って、つらそうに言ってました。私はやっと安心して、『なんとか正社員になれないの?』なんて言うんですけど、本人は全然その気がなくて、『今に写真集の印税で食わしてやるから』なんて言ってました」(れいさん)
 それからわずか3カ月後。エンドーくんの体にできた斑点が、9月に入ると体じゅうに広がり、みるみる赤黒くなってきた。

◆9月22~27日 寛解導入療法
 抗がん剤の副作用は、僕が予想していたよりひどいものではなかった。一番懸念していた口内炎はまったくできなかった。髪の毛は、投薬3週間目から抜け始めた。前もって入院前に坊主頭にしていたのだが、朝起きるたびに、枕元に短い髪の毛がゴッソリ落ちているのを見るのは気が滅入る。脱毛は男の僕でも精神的なダメージを受けたから、女性だったら相当にショックなんだろうと思う。
 投薬を始めて4週間目くらいから、白血球や血小板の数値が回復し始めてくる。1マイクロリットル中に300まで下がった白血球が、約2000を超すと部屋の外へ出られるようになり、約3000を超えてくると正常値になる。白血病の治療では、最初の寛解導入療法が、その後の治療方針や予後を決定づける大切なものになる。僕の寛解導入療法も終盤に近づき、治療結果を測定するために骨髄検査を行った。また、あの痛みに耐えなくてはならない。
 結果は、骨髄液中の白血病細胞(芽球)が0.6%。骨髄液中の白血病細胞が5%以下という定義である寛解に、無事達していた。
 結果を聞いて、涙が出るくらいほっとした。実は1週間ほど前に、同じ骨髄検査をしていて、そのときの結果が思わしくなかったからだ。担当医からは「治療の過程でステロイド剤を使っているので、白血球の数が正確に測定できないからもう一度検査をする」と言われていたが、最初の治療で寛解に達しないということが、どんなに悪い状況を意味することか、それまでの学習で知っていた僕は、この結果に打ちのめされていた。
 今回の検査で寛解に達したことで、治療の第一関門はクリアした。そして、この段階で、このまま化学療法を続けるか、それとも移植に踏み切るかという選択があった。当初、担当医は移植に積極的だった。僕の白血病が特別に抗がん剤が効く型ではないことに加え、最初の骨髄検査でいい結果が出なかったので、移植を勧められた。だが、この日の検査で寛解に達していたことで、担当医もこのまま化学治療を続けてみようという風向きになった。
 僕ははじめから移植には消極的だった。何より移植が怖かった。移植関連死の確率20~30%という数字は、僕を怖じ気づかせるのには十分だった。移植以外に生きる道がないというなら仕方がないが、薬で治る可能性があるならばそちらを信じてみたかった。

●エンドー帝国 9月29日~10月31日
 エンドーくんの最初の治療、寛解導入療法は10月3日から始まった。10月31日の骨髄検査で完全寛解が確認され、まずは治療は順調にスタートした。そして、エンドーくんも骨髄移植について医師から僕と同じような説明を受け、僕と同じように移植には消極的だった。
〈10月31日。とりあえず第1フェイズの抗がん剤治療は、50~60%だった白血病細胞を1%まで落とすことができて成功だった。そして、弟の血液検査の結果、通常は5、もしくは6合わなければならない型が3っつしか合わなかったので、弟で骨髄移植をする可能性はまず消えた。そして、俺の状態が、良・並・悪のランクだと、俺は「並」だそうだ。良の場合は今後の地固め療法という治療法だけで大丈夫だそうだ。逆に悪の場合は、骨髄バンクでドナーを探し、すぐに移植という方向らしい。そして、俺の「並」の場合、もし家族で適合者がいれば移植を薦めるが、適合者がいない場合、移植はせず地固め療法で様子を見るべき、というのが3人の先生の見解らしい。たとえ、ドナーで適合者がいても、弟に比べたら「他人」を移植するので、皮膚病やら内疾患的な病気に一生付きまとわれることになるらしい。危険なばくちをして、体にわざわざ爆弾を抱えることを考えると、やはり行けるところまでは地固め療法で行きたい。それでもダメな場合、最終的にドナーに頼るということも可だそうだ。
 いつかカンボジアに戻ることを考えると、やはり体に爆弾を抱えたくないのは本音だ。良くもなく、悪くもなく、みごとに中途半端な俺らしい結論といえば結論だが、正直すぐに移植でないことにほっとした。血液型が変わるのは知っていたが、「無精子」になってしまい不妊になるのは知らなかった。もし、弟が適合し、治療も順調で、受け入れ態勢もOKだったら春には移植になるかも…そう考えたら、正直気持ちの整理もつかなかった。俺は、子供好きだから、子供は欲しいと思ってはいるけど、こうゆう病気だと精子バンクも利用できるらしい。精子バンクからってなんか味気ないなぁなんて考えてしまって…でも、治療方針として、「骨髄移植はしない」という方向に決まったので少しは気が晴れた。今まで何人もの人が「骨髄バンクのドナー登録したよ」と言ってくれた。感謝です。しかし、これで全く移植をしないのではなく、もし地固め療法で再発したら、「最終的に骨髄移植」という選択肢を残したのだ。俺も最初はテレビドラマで見て、「絶対骨髄だけは移植提供したくない」と思っていたが、実際白血病にかかって、何度も死ぬかもしれない、と思った。夜、暗くなった部屋で、ちょっとでも悪いことを考えると、それが雪ダルマ式に膨れ上がり、自分がこの病室で死ぬことを何度も想像してしまった。意識があるのに病気で体が弱って死んでいくという恐怖。白血病になって思ったのは、ただ毎日過ごす日常が、大事に思えたこと。俺は、中学の同級生で一人白血病で亡くなった友人がいる。そして、去年亡くなった本田美奈子。身近と、有名人でこの病気で亡くなった人がいると考えると、治った人がいてもやはり自分が死に近いことを実感してしまう。
 俺はまだまだ生きたいと思った。それは、この病気で苦しんでいる人、皆そうだと思う。この病気に俺がなったことで、今まで白血病と無縁だった人が、少しでも身近な病気だと感じてくれたとは思う。俺はとりあえず骨髄移植しない治療で進めるけど、骨髄移植を待って、死の恐怖におびえている人が知らないところにいます。白血病患者に、生きるチャンスをください。あなたの勇気が、知らない誰かを助けるかもしれません。一人の命を救うだけでなく、その人に関わりを持つ、数百人の人にも幸せが訪れます。ドナー登録にご協力お願いします〉

(以下次号)
●エンドー帝国 カンボジア撮影日記 http://enen.exblog.jp/
●「遠藤俊介写真展 カンボジアの子どもたち」開催のご案内 東京・キヤノンギャラリー銀座 3月6~12日 名古屋・キヤノンギャラリー名古屋 3月27日~4月9日 大阪・キヤノンギャラリー梅田 5月1~14日


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