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特集◎ゼロ年代の言論

ハブメディアを構築せよ

荻上チキ 批評家、ブロガー

おぎうえ・ちき 1981年生まれ。成城大学卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。著書に『ウェブ炎上』。「シノドス」のメールマガジンで何か物を書きたい人、「トラカレ!」で媒体を取り上げてほしい方は
seijotcp@gmail.comまで。

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 柄谷行人と浅田彰が編集委員を務めた『批評空間』は、さまざまな意味で1990年代を象徴する批評誌だった。ではゼロ年代を象徴する批評誌は何だろうかと問われれば、私は「ない」と答える。
 批評誌がまったくなかったと言いたいわけではない。実際、『批評空間』が終刊した2002年以降も、いまだに知識人が自ら編集にかかわるなどしてフロントに立つメディアが多く存在している。例えば大塚英志が『新現実』(02年〜)を、福田和也らが『en-taxi』(03年〜)を、小林よしのりが『わしズム』(02年〜)を、鎌田哲哉らが『重力』(02年〜)を、富岡幸一郎が『表現者』(05年〜)を、上野千鶴子、柄谷行人が『at』(05年〜)を、萱野稔人、酒井隆史らが『VOL』(06年〜)を世に送り出してきた。
 しかし一方で現在では、出版業界から距離を取り、さまざまな媒体で表現をする論者も多く登場している。例えば宮台真司と神保哲生がゲストとともにトークを繰り広げるネット番組「マル激トークオンデマンド」(01年〜)や、作家・村上龍のビジネス系メールマガジン「JMM」(99年〜)は、「コンテンツ二次使用」や「広告収入」なども視野に含めたネット型のビジネスモデルを取り入れた点も含めて“新しい”メディアとしてインパクトがあった。『批評空間』より飛び出してきた東浩紀も、自身のレクチャー動画が収められた『不可視なものの世界』(00年)、ウェブ討議「網状言論」(00年〜)、メールマガジン「波状言論」(03〜05年、配信終了)など、商業誌以外の媒体で次々に活動を展開しており、ウェブ論壇にとっての黎明期を強く支えてきた。
「ブログ元年」と叫ばれた04年以降は特に、多くのブロガーがひしめきあうウェブ空間に注目が集まっている。ここ数年だけでもウェブ論壇は多くの書き手が輩出し、既存の議論とは異なるスタイルを作りつつある。雨宮処凛らの参画するネットラジオ「オールニートニッポン」や、宇野常寛の主宰するサークルサイト「第二次惑星開発委員会」およびミニコミ『PLANETS』などの場に象徴されるように、90年代まで続いた「文芸批評」の知的ヘゲモニーから距離を取るかのような運動・政治系、サブカル系の書き手が多く出揃っており、今回の『論座』のような形で「若手論者」の特集を組む際は、「ウェブ出身」の論者に焦点が当てられる機会が増えた。
 批評誌が旧来のような形では若い書き手たちのスタジオシステムを支えなくなった現在でも、ウェブ時代の発言者は独自の場を作り、議題を設定し、日々世界へと発信を続けている。その分、一冊の「批評誌」に次々と論者が集うことへの期待は下がり、雑誌が時代を象徴することへの期待も薄らいだ。
 これは「雑誌/ウェブ」の新旧対決に、後者が勝利を収めたという意味ではない。つまりゼロ年代には、個別の「大きなメディア」に象徴性がもたらされるのではなく、ウェブも含めたさまざまなメディアが、網状に言説空間を織り成している状況そのものに象徴性が与えられているということだ。
 企業も出版社も書店も運動体も、自前のメディアを持っており、中には批評誌よりも多く読まれているもの、批評誌よりもはるかにアクチュアルで丁寧な論考が載るものも珍しくない。批評家もまた、思い立ったと同時にブログやペーパー、ネットラジオを通じて世界にメッセージを発信している。
 現在のように誰もがメディアを持てる「一億総表現社会」(梅田望夫)では、既存メディアに不服があれば、簡単に自前のメディアを作ることができる。既にウェブに限らず選択肢は数多くあり、出版以外の回路も先人達によって多く開けている。ある言説モードが気に入らなければ、さっさと対抗のためのメディアを持ってしまえばいい。その批判対象よりも広く読ませてしまえば、具体的な「効果」をあげられる。ブログやメルマガであれば、販路の心配はほとんど皆無であり、残る阻害要因は「躊躇」くらいしか残されていない。
 このようなメディアの風景を前に、学生時代の私がウェブに飛びついたのはごく自然なことだろう。03年に人文系ニュースサイト「成城トランスカレッジ!」を開設して以来、私はこれまで多くのサイトの開設に関与してきた。「成城〜」を作る際にベンチマークとしたのは、浅田彰の「i-critique」、および山本貴光と吉川浩満の運営するウェブサイト「哲学の劇場」だ。前者は、浅田が最先端の知や芸術を次々に紹介していくディスクジョッキー型のサイトであり、後者は、運営者の2人が膨大な書籍を読みながら哲学の系譜や哲学者の歴史を記述していくディレクトリ型のサイトだ。この両サイトを前に、彼らほどの知識量がなく、知名度もなく、またサイト設計の能力もない大学生の自分には「大きなメディア」を作るのは無理だとあきらめ、代わりに人文系サイトやイベントを手当たり次第紹介するニュースサイトや、各テーマに応じた個別サイトなど、その都度「小さなメディア」を作ろうと考えたわけだ。
「小さなメディア」にこだわるのには、他にも理由がある。それは、私には次のような現状認識があるからだ。
「これを読め」という一冊の雑誌はなかなか指し示しにくい現状ではあるが、面白い知的コンテンツや論者は点在している。多くの知的なブロガーがせっせと書評や試論を書き、中には知識人へのインタビューを行っているものもいる。アカデミシャンの多くも勤務中にブログを更新しつつ、自分の領域に闖入してきたコメントを叱り飛ばしたりしている。「大きなメディア」の力は相対化されたかもしれないが、「小さなメディア」には今まで以上に豊かな知性が存在している。
 だったらそれらを繋げる「ハブ」(=接続)となるメディアがあればいい。ハブメディアの機能が担えるのであれば、形態はなんでも構わない。もともと人は、複数のメディアを拾い読みしているものだし、そのような読者達に対して「これで完璧」という一冊を作るよりは、各コンテンツを中心に置いたうえで、その道筋を作ってやればいい。このような認識があるがゆえに、「小さなメディア」を手に、ハブメディアを構築することに意義を見いだした。
「小さなメディア」が乱立する状況は、同時に小さなテーマの乱立しやすい状況をも意味している。実際、ここ数年ではさまざまな領域でテーマ批評と実証主義が力を持ち、疎外論的な「弱者」の叫びや、集合行動を生むための議題設定に注目が集まっており、旧来の「批評」的な語り口に対して厳しい視線が投げかけられている。語るべき対象も増え、「読者」の顔もウェブなどで可視化されているため、アクロバットな解釈の提示に対しては不特定多数無限大のツッコミが全方向からやってくる。そのため論争にかかるコストも上がり、棲み分けのニーズが高まっている。
 かといってそれらを打破すべく、郷愁的に「大きなメディア」を希求することはもはやできない。それら複数のテーマをつなげるのも、やはり小さなメディアの役割だ。小さなメディアの乱立はあたかもそれ自体が批評のタコツボ化を招くものと思われそうなものだが、実際はその現状を打破する名目で作られたものが多いし、それ自体が糊代として機能することもできる。そもそも、万人が完全にタコツボから出ないということはありえない。『ダ・ヴィンチ』を読みながらたまには『ユリイカ』を読んだり、『SIGHT』を読みながらたまには『論座』を読んだり、『東洋経済』を読みながらたまには「マル激トークオンデマンド」を視聴したりすることで、それなりのノリシロを持っている。だったら、小さなテーマのタコツボからちょっと顔を出して周囲をうかがっている読者をつなげればいい。人々の横断をサポートすればいい。それがハブメディアの役割だ。
 一つの媒体、一人の知識人、一つの思想、一つの運動に知的覇権を独占させようとする欲望さえ断念してしまえば、現在の言説はかつてないほどの賑わいにも見える。スターシステムを希求するが故に動きが鈍い雑誌論壇はさておき、もはや一人の知識人が全体性を代表するなどという態度はありえないということは、多くの者が受け入れている。だからこそ数え切れないほどのフリーペーパーやウェブサイトが点在し、日常化したウェブ上で小さなクラスターを形成している現在。それらメディア同士の緩やかな紐帯を築きさえすれば、創発的な誤配を多くもたらすことができる。批評誌なき、批評家なき状態においても、クラスター同士を瞬間的につなぎ合わせるハブメディアを構築すれば、適切な「批評装置」を構築できるではないか。
 批評装置という言葉について、若干の説明を加えよう。昨今ではしばしば、批評の失効や再建を話題にする。しかし批評の失効、あるいは批評をどのように機能させるかという問いは、逆説的に次のような前提を含んでいる。つまり、批評に「機能」があるとすれば、その「機能」さえ担えるものであればいくらでも別の代替物への置換が可能であるということだ。
 批評装置が総体として機能していれば、大きな「批評家」「批評誌」が「死」を迎えたとしても構わない。そして、ゼロ年代の風景からは、各メディアの乱立状況全体を「批評装置」としてとらえ、その状況に早々に適応しつつも、さらなるメンテナンスの必要を感じた者たちが、新たに「小さなメディア」を作ることでアップデートを図ろうと試みるプロセスを見いだすことができるだろう。
 私もまた「小さなメディア」を作り、文章を書くことで、批評装置のアップデートを図ろうと試みている。これまでも一人の編集者の努力や死、一人の批評家の登場や撤退、一冊のメディアの創刊や廃刊が言論をガラリと変えてきたように、これからも同様のことは起こるだろう。それが既に、雑誌であること、知識人であることの必然性は失われているが、一つのメディア、一人のプレーヤーの登場が、言説の磁場を左右することはこれからも起こる。
 おそらくこの特集では、私以外にも「批評装置の設計」を試みる人が別のモデルを提出しているだろうし、そのモデルは相互に対立するはずだ。それでいい。その絶え間ない磁場のうごめきが、批評装置のアップデートパッチになるのだから。

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 さて、最後に今後の話をしておこう。現在私は「トラカレ!」など複数のサイトを運営しつつ、社会学者の芹沢一也が主宰している「シノドス」を企画・編集の立場からサポートしている。シノドスでは月に2度、気鋭の論者を招いて毎回3時間近くにわたるセミナーを行っている。4月からはそのセミナーのテキスト起こしに加え、さまざまな分野の論者の寄稿や最新の人文系ニュース、海外の論者の翻訳原稿などを掲載するハイクオリティーのメールマガジンを発行する予定だ。そのボリュームは新書数冊分に値し、論者同士の交流や議論を促すとともに、歴史的に深みのある複数のテーマを横断して繋げていく重要な役割を担うだろう。芹沢と私、そして1名のスタッフを加えた少人数で取り組む、形態や販路にこだわらないコンテンツ中心の「小さなメディア」で、どこまでできるかを見守ってほしい。

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