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書棚と本棚 20

[書棚と本棚 20]

編集者の仕事(承前)

重金敦之

Shigekage Atsuyuki 文芸ジャーナリスト。

 本年度の大宅壮一ノンフィクション賞(第四十回)を受けたのは、平敷安常の『キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち』(講談社)だ。平敷は一九三八年生まれというから、歴代受賞者の中でも「高齢」の方だろう。選考委員の最年少、西木正明はトンキンワン事件の時、まだ十四歳の中学生だった。
 もはやベトナム戦争といっても、歴史の一齣として記憶から薄れつつある。著者はトンキンワン事件の翌年、六五年に毎日放送のカメラマンとしてベトナムの土を踏み、以後アメリカABC放送のカメラマンとして活躍し、七五年のサイゴン陥落まで取材した。チームを組む放送記者は現場を背景にし、カメラに向かって話しかける。通常立ってしゃべるからスタンダッパーと呼ぶ。本社では送られてきた映像を編集して実際に放送するチームがある。誰をもって編集者とするかは一概には言えない。
 しかし雑誌、書籍でも編集者がカメラマンと一緒に仕事をする機会は多い。戦争という特殊な状況での映像カメラマンだから、新聞や雑誌のスティール写真とは少し事情が異なるが、編集者からみたときに、写真や映像に関わるカメラマンの思考や性癖について、大いに参考になる。
 平敷は、「ベトナム戦争は多くの偉大なカメラマンたちを育てた。戦争はどのカメラマンにも公平な機会を与える」という。彼によれば、カメラを持って写して糧を得ている職業は「カメラマン」であり、すでに名を成し、素晴らしい写真を撮る者は「フォトグラファー」で名誉な響きがある。その上が「フォト・ジャーナリスト」で報道写真家の分野では特別な称号の意味がある、と平敷は述べる。頭の中には、ロバート・キャパ、カルティエ・ブレッソン、ユージン・スミスといったイメージがあるのだろう。この分類は截然とはしていないし、あまり意味があるとは思えないが、カメラマンの思考回路にはそれぞれどことなく違う認識と評価があるに違いない。『キャパになれなかったカメラマン』という書名に、著者の屈託が込められている。
 ベトナムには「週刊朝日」が作家の開高健と出版写真部の秋元啓一を特派した。折しも朝日新聞の日曜版で「世界名作の旅」という企画が評判で、深代惇郎、疋田桂一郎、森本哲郎といった「名文記者」が世界に飛んだ。海外旅行が自由化された直後で、多くの人がパック旅行で海外へ出国した時期だった。皮肉と毒舌で知られた学芸部のS記者が、「作家が戦場へ行って、新聞記者が文学というのはどこかおかしくないか」という名言を吐いた。ヘミングウエイの例を持ち出すまでもなく、かつて日本でも従軍記者として多くの著名作家が戦場へ赴いた。しかし多数の新聞記者が「世界文学」の取材に海外へ出張するというのはあまり聞いたことがない。S記者は鋭いところを衝いたのである。
 開高、秋元の二人は戦場で孤立し連絡が途絶えたことがある。「死」を覚悟し、お互いに顔写真を撮り合って「ラスト・ピクチャー」とした。東京の編集部には心配した牧羊子夫人と娘の道子さんが心配そうに駆けつけてきた。編集部としても、なす術はない。不安と緊張で当惑している母と娘の表情はまだ記憶にある。二人は無事に帰還するが、その写真を撮り合った日を「命日」として、毎年酒を酌み交わしていた。奇しくも開高一家も秋元啓一も早世した。
 ベトナム戦争で命を落としたカメラマンは数多くいる。沢田教一、嶋元啓三郎、一ノ瀬泰造らだ。先駆者、『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)の岡村昭彦も戦場ではなかったが、早い死だった。六五年に沢田が写した「安全への逃避」と題された母子五人の難民家族が必死に河を泳いでカメラの方に向かってくる「決定的瞬間」は、ピューリッツァー賞に輝くベトナム戦争を象徴する写真だった。
 ベトナムへ行く前に岡村を訪ねた沢田は動機を尋ねられて、「写真展に出せるような写真を写しに行く」と答え、岡村を失望させた。平敷自身も岡村から「お前にはまだ思想や哲学がない」と説教される。しかし東京都知事選挙で美濃部候補を応援する岡村の姿勢に平敷は違和感を覚える。
 確か「呼び屋」として、当時一世を風靡した神彰だったと思うが、「ベトナム戦争を宇宙中継するのが、現時点での夢」、といったことを話していた記憶がある。何を跳び上がったことを言っているのかと思ったものだが、九一年の第二次湾岸戦争ではそれが現実のものとなった。
 私がジャーナリストの道を決意したきっかけの一つに、一九五六年に東京の髙島屋で開かれた写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン—人間家族」がある。ニューヨーク近代美術館のために写真部長のエドワード・スタイケンが世界六八カ国から集めた五〇三枚の大写真展で、ロバート・キャパ、カルティエ・ブレッソン、ユージン・スミスなどの名前があった。私が高校一年生の時だった。写真家の富山治夫もこの写真展を観ていた。
(この項続く)