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小田嶋 隆の価格ボム!  2005年10月1日号

イラスト・佐藤竹右衛門

小田嶋隆 PROFILE
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第23回

150円

愛のメモリー

 メモリーと言っても、パソコンの増設スロットに差し込むあの緑色のブツではない。  ここで言う「メモリー」は、人間の記憶、すなわち「思い出」ないしは「追憶」を意味している。
 人間の記憶は増設なんかできない。随時自由なアクセスが可能なわけでもない。というよりも、「ランダムアクセスメモリー」という考え方は、若い人たちの迷妄にすぎない。
 年月を経たメモリーは、改変不能なリードオンリー記憶となり、最終的にはアクセス不能に陥る。っていうか、われわれの記憶はそもそもアナログなのだからして、愛の追憶はいつでも、多かれ少なかれ、情緒に曇っているものなのだ。残念だが。
 その、愛のメモリーが150円だという。画期的な価格だと思う。
 ん? 思い出はプライスレスだと?
 違うな。
 従量制だよ。愛も、思い出も。
「愛に記憶領域が必要なのですか?」って?
 スレ違いだが一応マジレスしておく。
 愛は、ご存じのとおり、揮発性の反応だが、それでも、運用上、8バイト程度のバッファメモリーは備えていないと機能しない。でないと、自分の言った言葉を覚えていられない。第一、結婚記念日すら記憶していないような関係が長続きするか?
 さてしかし、当稿の主題は、愛の永遠についてではない。スイートテンダイヤモンド? くそくらえだ。
 私が言っているのは、しげるだ。
 しげる兄貴の「愛のメモリー」が、iTunes Music Storeにおいて、ダウンロード数ナンバーワンを記録したのである。
 知らない人のために一応解説しておくと、iTMSとは、iPodの発売元であるアップルコンピュータが主宰する、インターネット上の音楽ファイル専門ストアのことだ。ちなみに現在、米国をはじめとする先進国では、このiTMSがCDの売り上げを圧倒しつつある。つまり、世界の音楽市場では、いつの間にやら、ブツの流通を伴わないデジタルファイルによる売買が主流となっているのだよ。
 そのiTMSがこの8月4日、ついに日本でもはじまった。そして、その記念すべき日に初登場9位で顔を出した意外なタイトルが「愛のメモリー」、すなわち、われらが松崎しげるによる1977年のスマッシュヒット(←同年、しげる兄はこの曲で日本レコード大賞歌唱賞を受賞している)だった、と、そういうわけだ。
 当初、この曲がいきなりベストテン圏内に現れたのは、何らかのバグに起因すると考えられていた。なにしろ28年前の曲だし。
「いや、大塚愛の《愛》で検索したヤツが大勢いたってことじゃないか?」  という説もあった。
 真相がいずこにあるのであれ、ともかく、この話題は、ネット上で拡散し、いつしか祭り好きの@2ちゃんねらーの注目するところとなった。
 と、「愛のメモリー」の順位は、徐々にランキングを上りはじめ、ついに「ポップ」部門での1位を記録した。
 すごい。快挙ですよ。これは。
 私も記念に購入した。
 なので、「愛のメモリー」についてもっと深く語りたいのだが、残念ながら、当欄に楽譜や歌詞を引用することはできない。誌面で、たった1行でも歌詞を引用すると、欄外に許諾番号を記載したうえで、JASRAC(日本音楽著作権協会)に著作権使用料を支払う手続きをしなければならないからだ。
 カネがもったいないということもあるが、編集者に余計な手間と心労をかけることは、筆者としては、非常に心苦しいことなのですね。ええ。
 結局、150円を支払って「愛のメモリー」を聴く権利を買ってはみたものの、それを他人に語る権利を、私は持っていないわけですよ。
 ついでに申せば、シャイロック、じゃなかったJASRACは、すでに私的録音補償金制度において、iPodなどのデジタルオーディオプレーヤーを、緊急に“政令指定”すべきだとする声明を発表している。
 つまり、音楽著作権を含む作品を記録する可能性を持つ媒体であるハードディスクからは、あらかじめ一定額の著作権料を徴収する所存だ、ということらしい。  なるほど。
 メモリーはカネで買え、と。
 愛は無料だといいな。