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小田嶋 隆の価格ボム!  2006年2月1日号

イラスト・佐藤竹右衛門

小田嶋隆 PROFILE
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第30回

50円(寄付金なし)

年賀はがき

 12月に入ると、俄然、年賀状関連のテレビCMが増える。
 日本郵政公社がここぞとばかりにキャンペーンを展開するのは、まあ当然(最後の砦だし)として、新世紀の旗手をもって任じるわがIT業界が、なぜか賀状交換を強力にバックアップしている。
 というのも、パソコンをはじめとするハイテク機器の需要は、実のところ、年賀状に代表される、極めて湿度の高い人間活動によって支えられているからだ。ローテクを支援するためのハイテク。ムダな作業を効率化するためのデジタル技術。嫌いな人間と付き合うためのコミュニケーションツール。実際、写真画質のプリンターなどは、一年を通じて、年賀状を打ち出すこの時期以外に、ほとんど稼働していなかったりする。誰も見ない写真。誰も読まない詩。つよインクで打ち出されるよわコンテンツ。
 パソコンだってそうだ。
「ほら、年賀状とかも作れるし」
 と、中学生が親にパソコンをねだる際の切り札トークは、ボーナス商戦たけなわの時期、年賀状に着地することになっている。
 そんなわけで、年末年始のテレビは、クリスマスのイチャイチャCM映像の合間を縫うようにして、賀状交換のらせん上昇ループをたくらむ各業界の常民洗脳CM……という見方は、そうだとも、偏見だ。友達の少ない準ヒキコモリが、社交家の人生を呪っているだけの話だ、と。ああ、そのとおりだよ。
 しかしながら、年頭のちまたを往来する賀状の8割は、「社交」や「友情」のメッセージとしてではなく、単に「義理」にからんだ手続きとしてやりとりされている。そんなムダなものはやめようぜ、というのが、当方の年来の主張……であるのだが、その主張とて、企業社会から孤立した偏屈者の叫びだと言われてしまえば、こちらの側からは、とりあえず、返す言葉はない。無念だが。
 で、振り出しに戻る。
 プリンター打ち出しの年賀状が、ようやくポストに投函されはじめた1980年代の終わり頃、それらの4倍角明朝体を刻印した黒一色の年賀状は、「心がこもっていない」という圧倒的な不評の声をもって迎えられた。なにしろ、パソコン自体が、まだマニアのおもちゃで、それを使っている人間に対する偏見も、依然強力だった時代だ。そんななか、パソコン製の年賀状は、「これ見よがし」な感じを醸し出しつつ、そのくせ最終的な完成度はイモ版以下だったわけだからして、不評だったのは、それはそれで仕方がない。でも、何で心のことを言われるんだ? だって手間を惜しんでパソコンを導入したわけでもないのに(つーか、手書きよりはるかに手間がかかったぞ)、どうして、非難されねばならんのだ?
 つまり、あんたたちが「心がこもっている」とか言う時の「心」は、「これだけ手間をかけましたよ」という、演出上の「手づくり感」なのか?
 おそらく然り。わざとヘタに描く絵手紙が流行しているのを見ても明らかなとおり、人々は、完成度の高い心よりも、不器用な心を好む。
 ともあれ現在、パソコン制作の年賀状は、業者による印刷年賀状ほど無機質でなく、手書きよりは手がかからないといったあたりで多数派を形成しつつある。負担にならない程度の手間と、押しつけがましさに陥る寸前の手づくり感。民主主義の不潔。
 生まれてこのかた、ほぼまったく年賀状を書かずに過ごした(うん。返事も出さなかった)私のもとには、毎年、数枚の年賀状が届くのみなのだが、そういう達人(だろ?)の年賀状は、おおまかにいって、以下の3パターンに分類できる。
1.業者:宣伝目的。返事なんか期待してない。床屋とか、CD屋とか、会員カードを作ったガソリンスタンドとか。
2.大人物:先方が20年にわたってなしのツブテを返してきているのに、一切意に介することなく、今年もまた機嫌のいい年頭あいさつを送る。素敵なヤツ。
3.自慢屋:返事には無関心。年賀状を、単に作品発表の機会ととらえている。ちなみに、私が過去に自分で出した時は、このパターン。ええ、うまい年頭俳句ができたものですから。(笑)
 つまりアレだ。あんまり心をこめたりせず、適当にやるのが、年賀状に限らず、人づきあいの秘訣だ、と。
 ってことで、今年もよろしく。(笑)