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小田嶋 隆の価格ボム!  2006年3月15日号

イラスト・佐藤竹右衛門

小田嶋隆 PROFILE
ホームページ、ブログに掲載中の日記をまとめた単行本『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)が好評発売中。http://takoashi.air-nifty.com/diary/

最終回

390円

ASAhIパソコン

 おい、休刊だってさ。
 絶句、だな。
 何かを言うべきなのだろうが、オレは絶句しておくことにする。深呼吸。30秒の沈黙。長いため息。そして絶句。クサい芝居だが、効果的だ。絶句。うまい言葉が見つからない時は、余計なことは言わない。黙って、たばこに火をつける。カチッ。禁煙中でなかったら。
 いや、本当なら、絶句だけで107ライン埋めたっていいのだ。
 だって、休刊にふさわしい言葉なんて、見つかるはずがないんだから。
 結局、致命的な何かが起こっている時、ふさわしい言葉は皆無なのだ。言葉は、肝心な時にはいつも役に立たない。 たとえば、親しい誰かの訃報を聞かされた時、キミはどうする?
 分析するか?
 説明を試みるか?
 それとも、対処法についてあれこれ腹案を並べてみせるか?
 どれもダメだな。そういう時は、知能指数を喪失して絶句する以外に適切な対応がない。わかってるはずじゃないか。 創刊準備のムックを作る時に、矢野編集長に声をかけていただいた。
 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった私(いや、売れっ子だったとか、そういうことではない。実態はほぼ失業者だった。でも、なぜか自信満々だったのだな。若気の至りで)は、たいしてありがたいと思うこともなく、
「まあ、やってもいいっスけど」
 てな調子で、仕事を引き受けた。
 以来18年、途中、途切れたり縁が薄くなったりもしたが、結局、最後まで連載ページを持たせてもらえた。
 ありがたいことだと思う。
 報酬のことを言っているのではない。 ひとつの雑誌の誕生から終了にいたる過程に立ち会えたことが、かけがえのない経験だった、ということだ。
 だって、面白かったから。
 そう、面白かった。それが一番だ。
 アサパソは、パソコンがまだ、海のものとも山のものともわからないインチキくさいオモチャだった時代に創刊した雑誌だった。
 だから、業界は変わり者のスクツで、読者はマニアの集合で、編集部はひとつのデカいタコ部屋だった。
「潜水艦みたいですね」
 と、朝日新聞社内の簡易宿泊施設に閉じこめられた(そう、私は、創刊準備号の締め切りを3カ月も延ばしていた)時、私は、創刊時のデスクであった今は亡き三浦さん(合掌)に言ったものだ。「ボクはここで暮らしてるんだよ」
 と、三浦さんは楽しそうに答えた。
 そう。当時、4人しかいなかった編集部員は、24時間常駐していた。
 メーカーの出してくるソフトは、バグだらけで、そのソフトについて私が書いたレビューにも、少なからぬ誤記があった。でも、誰も腹を立てなかった。
 ユーザーはソフトのバグ取りを自分でこなし、読者は誤植を見つけると、うれしそうに電話をしてきた。
 なぜなんだろう? どうして彼らはあんなに寛大だったのだろう。
 おそらく、値段がかかわっている。
 当時、マトモに動くパソコンのセットを一通りそろえると、100万円ぐらいにはなった。ソフトウェアも、コピー用紙をホチキスでとじたみたいなマニュアルのついたブツが、5万円で売られていた。
 それでも、誰も文句を言わなかった。 どういうことなのかというと、つまり、当時のユーザーは、貴族だったのだ。
 パソコンという、カネと時間をやたらに食うわりには、ほとんどモノの役に立たないマシンにかかずりあっていた人間である彼らは、年に一度のウサギ狩りのためだけに10頭の馬と5匹の犬を飼っているどこだかの国の貴族と同じく、滅び行く人々であったのだ。
 1990年代からこっち、パソコンは5年ごとに半額になる調子で値段を下げ、性能の方は、5年で10倍になっていった。
 で、われわれはどうなったんだろう? 正直に言おう。オレらは安くなった。チープな存在になった。たった390円の雑誌を高いと感じるほどに、だ。
 パソコンに何か致命的な厄災が訪れて、IT業界がひっくり返ることを祈ろう。
 そうすれば、パソコンに手を出すのは、物好きな、おっちょこちょいだけになる。
 そう。昔と同じだ。
 で、復刊、と。(笑)