船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.758 [ 週刊朝日2005年10月21日号 ]

新生イラクは国旗も国章も国歌も決められないまま、「国づくり」は空中分解のおそれ

 イラクの憲法草案の是非を問う国民投票が15日に行われる。

 この合意が大きな第一歩であることは間違いない。

 2003年春の米軍によるイラク侵攻とサダム・フセイン政権崩壊から2年半。この投票は、イラクの「国づくり」にとって、もっとも重要な節目となるだろう。

 草案は新生イラクの国家像を「連邦制、民主制、議会制」であり、「イスラムを国の公式宗教とする」と位置づけている。そして、「セクト主義や人種主義のない新しいイラク」建設への決意、つまり多民族、多宗教、多宗派の多元的社会ビジョンを謳い、「テロリズムとタクフィール(他者を異教徒と断罪すること)は法治国家建設への道を妨げることはできない」として、テロとの決別を強調している。

 投票の結果、過半数の賛成票が得られれば、憲法草案は承認される。過半数に達しても、全18州中3州以上で反対票が3分の2に達した場合は、否決される。

 イラクでは、投票日を前に、連日、テロ攻撃が激しさを増している。

 その多くは、スンニ過激派による米軍とシーア派に対する攻撃である。

 今年1月の総選挙で、スンニ派主要政党は不参加を表明した。シーア派政党が議会過半数を握ると、スンニ過激派の反シーア派テロは一段と激化した。

 このほど開かれた米上院軍事委員会公聴会ではこんなやりとりがあった。

 ジョン・マケイン上院議員(共和党、アリゾナ州)。

「イラクでの物事は、計画し、期待したものとよほど違ってきている。この委員会が聞かされ、国民が聞かされてきたことと大きく違っている。そうではないですか、将軍?」

 リチャード・マイヤーズ米統合参謀本部議長(当時)。

「イラクの物事がうまくいっているなんて、私がそんなことをどこで言いました? そんなことはけっして言っていません」

 ことほどさように、イラクの治安情勢は悪い。

 2003年3月、米軍イラク攻撃。4月、バグダッド入城。5月、ブッシュ大統領、高らかに勝利宣言。

 うまくいったのはそこまで。

 後は坂を転げ落ちるように暗転し、そして、泥沼にはまっていった。イラク移行政府は、テロ対策のため全国に86の治安部隊を配置したが、そのうち米軍、英軍に依存せず、自分で戦える部隊は一つしかないという。

 イラクにおけるボディー・カウント(戦死者・犠牲者)を記録しているウェブサイト(※)によれば、10月4日現在、米軍の死者は1936人である。このままだともうじき2千人の大台を超える。米軍戦死者の3分の1は、自爆テロなどの爆破によるものだ。

 イラクの民間人の犠牲者の数は2万6323人から2万9653人の間と推測されている(同ウェブサイト)。その多くが民族、宗教、宗派の間のテロ、殺戮である。アル・ジャファリ首相の補佐官であるジョージ・サダ氏は「現在のセクト同士、民族同士の殺戮は、実際には内戦が始まっているということなのだ」と述べている。

 晴れの投票日は、そうした惨憺たる状態で迎えることになった

 何もかも急ぎすぎである。憲法を制定し、政府をつくり、国づくりを進める。そして、米軍は撤退したい、来年秋の米中間選挙までの間に、成果を出したい。

 急ぎすぎた結果、シーア派、クルド、スンニ派の間の合意形成を吹っ飛ばした。

 議会も政府も、多数派の南部シーア派勢力とアラブではない北部クルド勢力に押さえられ、少数派の中部スンニ派勢力は、無力感と敗北感を強めている。サダム・フセイン時代は、統治側で臨んできただけに、復讐されるのではないかとの恐怖感に駆られている。

 スンニ派はまた、シーア派とクルドが結託して、イラクを連邦制に変え、最後は分解しようとしているのではないかと疑っている。イラクの石油は北部と南部に集中している。スンニ派の中部は石油の出ない内陸部である。もし、国が分解した場合、スンニ派はメソポタミアのアフガニスタンになってしまう。

 急ぎすぎた結果、草案の条項の多くがあいまいな表現になってしまった。

 議会上院や最高裁の権限や手続きは明確にされていない。クルド地域以外は、連邦制の構成地方の区割りは明記されていない。

 また、連邦制の下での中央政府と地方政府の権限の線引きが不明確である。

 そもそも、地方分権に傾斜しすぎている。中央政府の専権事項は、外交、防衛、財政、それ以外は地方政府、と交通整理されているが、地方政府は「警察、公安、護衛などの内務治安に責任を持つ」と定められている。実質的には、それぞれの地方政府が軍事機能を持つことへの抜け穴を用意しているのである。

 また、課税権と交付金配分権限も不透明なままである。最悪の場合、課税権はすべて地方政府となりかねない。石油・ガスは「すべての地域、地方の全イラク人の所有物」と規定されているが、その地域の石油・ガスはその地域の所有物というふうに解釈される可能性もある。

 こうしたあいまいなところは、将来、法律や憲法修正で手当てせざるを得ないが、その場合、議会多数派のシーア派の主張がさらに織り込まれる可能性が強い。それはスンニ派の一層の反発をもたらしかねない。

 スンニ派は、これまで三つのことを主張してきた。

▽連邦制導入反対(それは結局、イラク解体の導火線になると警戒する)
▽バース党粛清反対(脱バース党化は脱スンニ化につながると警戒する)
▽「アラブ国家」維持(従来のイラク憲法に明記された「イラクはアラブ国家である」との規定は「イラクはイスラム世界の一部であり、そのアラブ系住民はアラブの一部である」と変えられた。クルド勢力が推したためである。スンニ勢力は、これに猛反発)

 憲法草案は、スンニにとって悪夢の草案となってしまった。

 世界の紛争予防を専門とする国際的NGO(非政府組織)である国際危機グループ(ICG)は、最近の報告書(9月26日付)の中で、米国が三者(シーア、クルド、スンニ)の中に入って、

(1)三者の真の妥協案作成
(2)南部シーアの巨大単一ブロック形成阻止
(3)バース党党員歴による公職追放解除

を強力に推進せよと説いている。

 もっともな提言だが、残念ながら、時すでに遅しの観がある。

 イラクではいま、すべて、遠心力が働いている。

 憲法草案も、その遠心力を反映している。

 唯一、求心力のある表現は、憲法草案前文の「われわれ、メソポタミアの息子たちは(We,the sons of Mesopotamia)」のくだりだけである。

 草案には、国旗も国章も国歌も定められていない。それもまた、合意することができなかったのである。