船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.789 [ 週刊朝日2006年6月9日号 ]

文革40年、いまなお歴史になりきれず、克服できない過去

 朝日新聞の北京特派員をしていたときだから、もう四半世紀も前の話だが、初対面の中国人と会うたびに「文革(注1)のときはどうしていらっしゃったのですか」といった質問をしたものである。

 四人組が逮捕され、とう小平が復活し、改革・開放が始まり、人々の顔に久しぶりに笑顔が戻ってきた。そうした時代の風が吹き始めたころのことだ。

 彼らは、遠く、貧しく、寒い農村に下放させられた話か、一家散り散りバラバラの艱難辛苦の身の上話を言葉少なに聞かせてくれた。

 彼らのほとんどは「いや、いまとなっては懐かしい思い出です」とか「毎日、野良仕事をさせられたおかげで、ずいぶんからだが強くなりました」とか「中国の本当の姿を初めて知りました。感謝しています」と答える。それも、微笑を浮かべながら、淡々と話すのである。

 そうした受け答えが、中国では一つの作法なのだということに気づくまでに、そう時間はかからなかった。

 自らの文革体験を語ることは、とりもなおさず、文革をどのように評価するか、それを発動した毛沢東をどう評価するか、共産党の責任をどう考えるべきか、というきわどい問題にかかわることにほかならない。

 1981年、中国共産党中央は「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」で文化大革命を否定したが、毛沢東については「文革で重大な過ちを犯したが、功績はより大きい」と評価した。毛沢東評価を「功績6分・過ち4分」の「6・4」評価で決着させたわけである。

 そうした政治的決定の下、自らの文革体験の物語もほどほどにしておかなくてはならない。その間合いの取り方はまことに難しいのである。

 私は、1981年1月の「林彪・江青反革命集団」判決を取材した。江青は、「革命無罪」と叫んだため、法廷外に連れ出された。その日の傍聴席には、劉少奇元国家主席の夫人・王光美の姿もあった。彼女は、判決の感想を聞かれ「人民の勝利です」と語った。

 もっとも、そうした話は、後で聞いた話であって、その日のテレビ中継では見ることができなかった。

 中国メディアは、この裁判に対して「人民の勝利」とか「人民裁判」という言葉を麗々しく使ったが、改革派の心は晴れなかった。

 改革派は、被告の罪状は文革中のことであるのに、80年から発効した新刑法をさかのぼって適用したこと、検察陣、裁判官の中に被告たちに迫害された者がいること、少人数の傍聴人だけ許され、外国人を閉め出したこと、などの疑問点を指摘した。

 私がつきあった中国の識者はほとんど改革派の人々だったが、彼らは、毛沢東後の時代を切り開くに当たって、なによりも重要な「民主と法制」の第一歩が、このような政治裁判だったことに失望感と不安感を漏らした。

 私がいちばん鮮明に覚えているのは、懇意にしていた大学の経済学教授が、「今回の裁判で、四人組に対する憎しみが少し薄れ、その分、毛沢東への憎しみが増えた」と言った言葉である。

 たしかに、紙芝居のような裁判ではあった。それでも、人々は、四人組は結局はピエロだった、いちばん悪いのは彼らを操った毛沢東だ、と直感的に感じたのである。

 その後、文革中の残酷物語は数多く出版された。私も多くの記録を読んだ。

 ユン・チアンとジョン・ハリデイの共著“Mao The Unknown Story”(邦題『マオ――誰も知らなかった毛沢東』)は、パラノイアにとりつかれた毛と政敵との権力闘争と陰謀を軸に文革を描いている。周恩来のような名宰相までが毛の奴隷に成り下がっている姿をここまで見せつけられると、痛ましいというより哀しい。

 文革モノで私の心にいちばんしみ入ったのは、『上海の長い夜』(注2)である。あの狂気の社会にあっても、品格をもって生きた人間と良識の記録だった。

 しかし、文革の全体像、その構造分析、その中での中国共産党の役割と責任、個々人の責任の所在、けじめのつけかた、といった点になると、それらは一切、不問に付されたし、いまもそうである。

 そういう問いかけをすること自体、中国人の場合は反愛国的であり、外国人の場合は反中国的、とされてしまう。

「6・4」評価の下、天安門広場にはいまも毛沢東の肖像画が一面を睥睨(へいげい)している。

 胡錦涛国家主席も2003年の毛沢東生誕110周年に当たって「毛思想は永遠に高く掲げ続けなければならない」と演説している。

 1990年代に入ってからは、毛グッズが若者たちの間で、人気を集めるようになった。

 北京市内の骨董市場ではありとあらゆる「毛・文革グッズ」が売られている。

 毛沢東バッジは、1元から30元。「打倒され、紅衛兵に踏みつけられる劉少奇」を描いたポスターは800元、といった具合だ。

 特派員勤めを終え、北京を離れるとき、中国の友人たちが「こんなもの要らないから、もしよかったら」と言って、毛沢東バッジや毛語録、毛沢東の胸像(陶器)をくれた。

 毛沢東バッジは、シワシワのビニール袋に何十と詰めてあった。毛沢東の胸像は、いまも私のワシントンの自宅の書斎の本棚に置いてある。「偉大な教師、偉大な指導者、偉大な統帥、偉大な導き手 毛主席万歳!万万歳!」と下の台に書いてある。

 教授が言った「毛沢東に対する憎しみ」はその後、どうなったのだろうか。

 中国の識者と話していると、それはいまなお地下水脈として流れていると感じるときがある。しかし、むしろ、一般大衆の間では、毛沢東に対する郷愁とあこがれが現れつつあるようだ。

 天安門事件(注3)後のモノに憑かれたような党・国家一丸となった経済発展と成長大躍進、その過程で深刻になりつつある格差――富、機会、地域間、「勝ち組」と「負け組」の格差――の急速な広がりが生まれつつある。

 それなのに、党権力と党幹部の腐敗はとどまるところを知らない。

 そうした矛盾を痛切に感じているだけに、年配者の間には、独裁者の下での「絶対平等」への郷愁が強まるのだろう。若者の場合は、1990年代の愛国主義教育によって、中国の過去を美化することを教えられてきたことが背景にあるのだろう。

 中国では、文革に関する歴史研究はますます難しくなっているようである。

 文革研究者として知られる徐友漁・社会科学院研究員は「90年代に研究書をいくつか出版したが、いまは無理。再版も認められなくなった」と語っている(香港の明報のウェブサイト=5月14日付=から)。


注1 文化大革命は1966年5月16日、毛沢東の「5・16通知」を党中央政治局拡大会議が採択したことから始まり、1976年の毛沢東の死去と四人組の逮捕で終わった。

注2 元国民党政府外交官夫人で、6年以上投獄された鄭念さんによる文革の記録。

注3 1989年6月4日、北京・天安門広場に民主化を求めて集まった学生らを人民解放軍が弾圧し、多数の死傷者が出た。