船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.792 [ 週刊朝日2006年6月30日号 ]

日本初戦敗北の日。ドイツの人々のおもてなしの心がひとしお沁み入った

 運転手のライナーさんは、定刻きっかりにフランクフルトのホテルに来てくれた。

 これから、カイザースラウテルンのスタジアムまで1時間半ほどの道のりのはずだ。

 道路事情や交通事情に疎いし、それから途中、道案内をしてもらおうと思って地元のハイヤー会社に手配を頼んだら、ライナーさんを派遣してくれた。

 彼は1954年の「ベルンの奇跡」をかすかに記憶している世代である。

 その年のワールドカップ。スイス・ベルンでの決勝戦で、西ドイツは強豪、ハンガリーを破って優勝した。

 敗戦にうちひしがれ、国民という感覚が麻痺していた西ドイツ国民は国民意識を取り戻した。それは、「新生西ドイツの国民感情的な誕生の瞬間」だった、とドイツの歴史家は述べている。

 当時の西ドイツの主将、フリッツ・ワルターの名前は、小学生になったばかりのライナーさんの脳裏にも刻み込まれた。彼は、サッカーチーム、カイザースラウテルンに所属していた。

 ワルターこそ、新生ドイツの戦後の最初の国民的英雄だった(ワルターは2002年の日韓W杯の開催中、亡くなった。ドイツチームは右腕に喪章を着けてプレーした)。

「あのときのイレブンは、ワルターはじめ、カイザースラウテルンの出身の選手が多かったんです」

 とライナーさんは誇らしげに言った。

「あそこは、戦後、いち早く米軍が進駐したところでもありました。いまは自動車のエンジンや部品関連の企業が主力産業です」

 マイン川を渡った。

「この川の真ん中に巨大なスクリーンがあります。W杯の全試合を映します。川の両側からそれを見られるようになっています。夏、夜風に当たりながら、ビールを飲みながらサッカーを見るのは極楽です」

 この日。午後3時。日本対オーストラリア戦。

「オーストラリアの選手は背が高いから、球を浮かされないようにしないとね。ただ、日本チームには人のまねできない強さがあります。最後まであきらめない、あの敢闘精神です」

「そうですね。私もそこが日本チームのいいところだと思います。ロスタイムに点を入れて勝ったことも何度かありますしね」

 そう言いながら、私の心は弾んだ。

 ライン川を渡り、しばらく行くと田園風景が広がる。

 サクランボ、リンゴ、アスパラガス……とライナーさんは一つひとつ、確認するように言った。

「国家の品格」といったものがあるとすれば、田園風景に備わっているこのような風格がそれを映し出しているに違いない。

「速度無制限区間に入りました。スピード出しても大丈夫ですか」と聞かれた。

「大丈夫です」と言うと、ライナーさんはアクセルを踏んだ。

「いま、時速210キロです」

「この間、カワサキがテスト・ショーをここでやっていました。時速300キロで飛ばしていました」

 町に入った。

 ワルチング・マチルダ(「渚にて」の主題歌)が演奏され、カンガルーの人形を首や腹に巻きつけたオーストラリア人たちがにぎやかに前景気をつけている。

 日本からの「サムライ・ブルー」ハッピ姿も健在だ。

「日の丸弁当」のようなデザインのキャップを被り、背番号「10」(俊輔)のシャツを身に着けたフロイラインたちもいる。

 私の席は、21・1ブロック。28列目30番。

 右隣は、日本人の若い男性2人連れ。左の2人は、サッカー・ジャーナリストなのだろうか、しきりにスコアをつけている。

 右隣の男性は、用意してきた白い紙のボードにマジックインキで、「JAPAN IS NO.1」と書いて、上に掲げた。すると、ピッチを見下ろす大きなスクリーンにそれが映った。

 ニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン、私も声の限り応援した(だいたい5回叫ぶと後はしぼむ)。

 川口の好セーブが続く。

 ヨシカツ、ヨシカツ、ヨシカツ……力いっぱい声援した。

 俊輔の蹴ったボールがコロコロとゴールに入った瞬間、私たち3人は、お互いの肩に手を回して、ピョンピョン跳ね上がった。

 それがぬか喜びに終わることになろうとは、そのとき、誰が思っただろうか。

 試合が終わった。右隣の2人は、うなだれ、いつまでも立ち上がらない。気持ちは私も同じだ。あれだけ一緒に応援した仲なのだから、別れの声をかけようと思ったが、このままにしてあげよう。

 21のゲートに下りるところで、ドイツ人の太っちょの警備のお巡りさんが、目を悲しそうにしばたたかせて、それから目を落として、口を曲げて、首を心持ち左右に振った。

「残念だったね」

 どんな言葉より、その表情には、その気持ちが表れていた。

「ダンケシェーン」

 私は、軽く会釈しながら、小声でそう言った。

 スタジアムから1キロ半ほど歩いた町の駐車場でライナーさんが待っていた。

「残念だったですね」

 そう言って口をつぐんだ。

 車に乗ってしばらくして、ライナーさんは言った。

「今日は31度と馬鹿陽気でした。ピッチの上はもっと暑かったでしょう。選手にはさぞかしこたえたでしょうね」

 彼ともお別れだ。

「それでは。ドイツの健闘を祈念して」

「日本の敢闘精神を祈念して」

 その夜、ホテル近くのイタリア料理屋にぶらりと入り、簡単に食事をしてから、マイン川まで歩いた。

 途中、「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ」と金文字で書かれた看板の店があった。その三つの楽器たちだけがショーウインドーの中、光に照らされている。

「国家の品格」があるとすれば、楽器たちにこのように生き生きと自己主張させる楽器屋さんが、ちゃんとビジネスとしてやっていることではないか。そういう経済文化を持っていることではないか。

 川の真ん中の大スクリーンでは、イタリア対ガーナ戦を放映していた。

 イタリアが得点すると、シンバルがけたたましく打ち鳴らされた。

「デルピエロ 10」

 と書かれたシャツ姿の初老の男性がなにやらイタリア語で叫んでいる。手に手にイタリアの国旗をかざした人々が踊りまくっている。

 試合途中で切り上げ、ホテル近くのパブに入った。

 ビールを頼んだ。

 なま温かい。

 それを人間ドックの尿検査のときに入れるようなコップに入れてきた。気持ちがまたまた落ち込んだ。

《あんな負け方はないだろう》《ロスタイムにまで点を入れられるとは》《さすがの川口も息切れたか》《ジーコよ、なぜ、もっと早めに交代させなかったんだ》

 言いたいことは山ほどある。

 ほとんど口をつけないまま、外に出た。

 悔しさがこみ上げてきた。

 これだけのイレブンを抱えながら、日本らしさ、日本のスタイル、日本の“蹴格”を示せなかったことが悔しい。