船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.798 [ 週刊朝日2006年8月11日号 ]

中国ソフトパワーにどう対抗するか。長期的な国益を見失わないことが大切だ

 ソ連がまだ存在していた冷戦時代、米国は、世界各地の米大使館に必ず1人は任地国とソ連との関係を追跡する専門職の職員を置き、ソ連の世界における影響力の点検を怠らなかった。

 米ソの戦いは、超大国同士の軍事的覇権闘争であったが、それ以上にイデオロギー闘争でもあった。つまり、世界の人々の「心と頭」(hearts and minds)を、どちらがどこまで引きつけるかの体制間競争だった。

 それと同じように、米国は、世界の米大使館に任地国と中国との関係を絶えずウオッチする専門官を1人は置くようにすべきだ、と、カーネギー国際平和財団のジョシュア・カランジック客員スカラーは述べている。

 任地国と中国との軍事、経済関係を追跡するのはもちろんだが、それ以上に、中国の提供する留学生奨励プログラムや政治家視察プログラム、中国主催の文化企画、現地で放映されるCCTV(注1)のコンテンツ、地元メディアに対する中国大使館の圧力などの影響力の浸透を測定する必要がある。

 つまりは、中国のソフトパワー(注2)の測定である。それを専門とする測量士を世界中の大使館に駐在させよ、との主張である。

 それほど、中国のソフトパワーの進展はめざましく、このままでは、米国は中国とのソフトパワー競争に負けてしまうとの危機感がワシントンには広がっている。

 ソフトパワーは、強制や脅しによって相手にこちらの欲することをさせるのではなく、こちらの魅力に釣られて、相手のほうからこちらの欲することをしてくれる、そういうパワーである。

 中国のソフトパワーは、1997、98年のアジア経済危機を境に増幅し始めた。

 アジア危機に対して、中国は人民元平価を維持し、平価切り下げ競争の悪化を予防した。中国は「安定感」を与えることに成功した。

 次に、ASEAN諸国との自由貿易協定(FTA)を率先して結んだ。中国は東南アジアに対する援助を急増させつつある。すでに、中国のフィリピンへの経済援助は米国の4倍。ラオスは同3倍、インドネシアは同2倍の規模に達している。

 かつては、中国の対外援助というと、ベトナムやラオスに対する巨大な友好会館建設といったイデオロギー展示物だったが、最近はきめ細かくなってきている。

 タイの場合、政治家の訪中視察プログラムを経済援助に組み込んでいる。

 中国は急速に「与える国」になりつつある。与えることで相手との「一体感」を醸し出している。

 それから、中国は、各国との間の領土問題を次々と解決してきた。過去10年間に、23の領土紛争のうち17を平和的に解決した。それによって中国に対する恐怖感を大いに和らげた。

 米一極構造の世界の中で、中国は、米国との関係が緊張している国々に手をさしのべ、良好な関係を形作ってきた。

 東アジアでは、ミャンマー、カンボジア、ラオス、アフリカは、スーダン、アンゴラ、ジンバブエ、中東はイラン、ラテンアメリカはキューバ、ベネズエラ、ペルーなどである。

 中国の資源戦略が突き動かしている面も大きいが、同時に、これらの国々の中国への“熱烈接近”の側面もある。

 彼らは、中国が米国に対する拮抗力として働くことを期待しているのである。中国はこれらの国々に、ある種の「安心感」を与えている。

 一方、歴史的にロシアに対する警戒感と拒否感が強い中央アジアの国々は、中国がロシアに対するある種の拮抗力を持つことを期待している。カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなど、いずれもそうした点に中国との関係強化のメリットを見いだしている。

 中国の留学生招請プログラムも充実しつつある。ここ10年で、中国の留学生受け入れ人数は4倍になった。

 米国は、2003~04年、過去30年で初めて受け入れ留学生の数が前年を下回った。一方、2004年、中国のインドネシア学生へのビザ(査証)発給数が米国の2倍となった。

 また、中国語と中国文化の普及を柱とする文化政策を鋭意、推進している。

 ドイツのゲーテ・インスティテュート(注3)の向こうを張ったような孔子学院を世界各地に建設している。

 このように中国は、「過去」ではなく「未来」への人的投資を積極的に行っている。それは、いずれは中国への「親近感」という配当を生み出すだろう。

 中国のソフトパワーはこのような「安定感」「一体感」「安心感」「親近感」を中核としている。

 もっとも、パワーというのはハードもソフトもゼロ・サム・ゲームである。中国の上昇は他の大国の下落によって際立つ。

 米国と日本が、中国の格好の引き立て役となっている。

 米国の場合は、一極構造にあぐらをかいたネオコン的傲慢とその帰結としてのイラク戦争・イラク再建の失敗、日本の場合は、首相の靖国神社参拝による歴史問題の逆噴射と国連安保理常任理事国入り外交の敗北、である。

 とりわけ、国連安保理の票集めではアジアでほとんど得票できなかった。中国が立ちはだかったからである。

 もっとも、中国のソフトパワーにも泣きどころがある。

●世界の民主化の潮流になじまない政治体制

●とどまるところを知らない腐敗

●かけ声だけの法治、ルール無視、何事もコネのガバナンス不在

 中国のソフトパワーの最大の課題は、中国の内政、とくに政治の透明性と経済の倫理性の確立にある。

 外交戦略面では「平和台頭」というソフトパワー概念を編み出している。中国はグングン台頭するが、現状維持(ステータス・クオ)を破壊することはしないから心配するには及ばない、という精神分析医的処方箋である。

「戦争台頭」論より「平和台頭」論がいいに決まっている。中国自ら自制をしますと言っているのだから、それを奨励するのが得策である。ただ、この理論のアキレス腱は、対日、対台湾政策である。そこに渦巻く排他的民族主義をどう抑えるか、それが「平和台頭」論の行方を決めるだろう。

 中国人は自国の将来に大いに自信をつけている。

 それはむしろ歓迎すべきことである。自分に自信を持ってこそ、気持ちのゆとりも生まれ、相手の感情と立場に対する気遣いも生まれるからである。

 日本も自らのソフトパワー戦略を抜本的に見直し、再構築する時である。

 ただ、中国と日本は違う。中国にのまれてはいけない。

 日本の長期的な国益を見据えて、どこが日本のソフトパワーの価値と違うかを見極め、知的資源と人的投資の選択と集中を果敢に行うことだ。


注1 中国の国営テレビ局、中国中央電視台。

注2 米ハーバード大のジョセフ・ナイ教授が提唱した概念。具体的には、軍事力やそれを支える技術力・経済力などの「ハードパワー」に対して、情報能力や政治・外交能力を指す。

注3 ドイツ語やドイツ文化の普及活動を行う機関。世界各国に支部がある。