船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.799 [ 週刊朝日2006年8月18-25日合併増大号 ]

レバノン危機の本質は「シーアの弧」の脅威と見る米、イスラエル

 レバノンのヒズボラ(注1)が使っているロケット砲は、カチューシャと呼ばれる第2次世界大戦のときの時代物だ。

 ヒズボラは、それを毎日100発、イスラエルに向けてぶっ放した。

 イスラエル人の死者は、これまでのところ50人。そのうち30人が兵士である。

 イスラエルのほうは、レバノンの南部のヒズボラの根拠地を空から砲撃し、ヒズボラゲリラ多数を殺傷した、と発表している。

 ヒズボラの戦力は、1万5千人と言われる。中核部隊は800人から900人だが、そのうち数百人を抹殺した、という報道もある。

 イスラエルのシモン・ペレス副首相は「ヒズボラは相当へたってきている。武器も彼らが認めている以上に大量に失っている」と述べ、戦意をあおっている。「これから注意しなければならないことは、シリアとイランが、ヒズボラに武器を再び供給することのないようにすることだ」とペレスは警告を発する。

 ヒズボラ戦士を皆殺しにし、武器の供給元さえ締め上げれば、イスラエルの北の守りは万全になると言わんばかりである。

 1973年の中東戦争(ヨム・キップール戦争)では、緒戦はつまずいたものの、20日間でエジプト軍とシリア軍を殱滅した。

 今度は、相手は国家ではない。ネットワークである。

 それなのに、20日を過ぎても相手のロケット弾が飛んでくる。

 イスラエルは敵地を占領したわけではない。

 敵のリーダーを殺したわけでもない。ヒズボラのリーダーのハッサン・ナスララ(注2)の死亡は確認されていない。

 それでも、軍事的には圧倒的な優位に立つイスラエルのことだから、戦争を続ければ遠からず、軍事的に相手を制圧するだろう。

 しかし、政治的勝利を勝ち取るのは難しい。

●イスラエルの砲撃で、子どもが多数、殺された。その惨(むご)い姿がテレビ映像に映った。その瞬間、イスラエルがどんな口実を使おうが、国際メディアでは、イスラエルは敗北した。

 いまや、ハッサン・ナスララはアラブ社会の英雄である。

 カラシニコフを片手に持った彼の写真をあしらったTシャツは、アラブ・ストリートでは大変な人気だ。パレスチナ西岸のラマラでは、2千人がナスララの写真を掲げ、エジプトのムバラク大統領とヨルダンのアブドラ国王を非難しながら、デモ行進した。

●頼りとする米国の国際的威信は地に落ち、レバノンとイスラエルの間のオネスト・ブローカー役を果たせなくなりつつある。

 マロックブラウン国連副事務総長は、「イスラエルとヒズボラとの間の紛争を解決するのに、英米がチームを組んで当たるのはやめたほうが得策だ。イラクのあの伝でまたか、という印象を与えるおそれがある」と忠告している。

●イラクの人々の精神的指導者であるシスタニ師が、ヒズボラとイスラエルの即時休戦を呼びかけている。イスラエルは(基本的には米国も)、「問題の根本原因はテロ集団のヒズボラにある」とし、休戦には抵抗してきたが、シスタニ師の発言にはブッシュも真剣に耳を傾けなければならない。

 しかし、より大きな問題は、米国の姿勢がぐらついていることである。

 コンドリーザ・ライス国務長官は「現在起こっている紛争は、新たな中東を生み出すための陣痛のようなもの」と述べた。

「新たな中東」の概念は、“民主中東”の別名にほかならない。

 イラク戦争を始めるに当たって、イラクの民主化は中東全域の民主化の起爆剤になるといったおめでたい中東民主化ドミノ理論が大手を振って登場した。

 しかし、イラクの現実は、中東が米国の民主化推進外交の苗床にはならないことを思い知らせた。

 イラクでは、自由選挙が行われたが、その結果、シーア派(注3)が多数派となり、少数派に追いやられたスンニー派との間の死闘が始まった。

 それは、隣のイランの中東全般における勢力拡大をもたらしつつある。

 それはまた、パレスチナにおける自由選挙で、ハマス(注4)の勝利を呼び込んだ。レバノンでもヒズボラが同じように躍進するだろう。

 ハドソン研究所のウィリアム・オドム上級フェローは、「米軍のイラク駐留が長ければ長いほど、ムスリム諸国の政権が崩壊し、イスラエルと近隣諸国の全面戦争の可能性が高まる」と予測する。ヒズボラ、ハマスとイスラエルの紛争を、その序曲と見るのだ。

 シーア派のめざましい台頭とそれに対する米国をはじめ欧米諸国、さらには中道派アラブ政権の脅威感が高まっている。

 イスラエルとヒズボラの“戦争”は、それを先取りした闘争の始まりと見ることもできる。

 サンクトペテルブルクのG8サミットが開催される前、ブッシュはブレア、シラクと話し合った。

 3人は、シリアとイランに圧力をかけながら、ヒズボラをどのように抑え込むか、という点で合意した。

 その際、シラクは「ヒズボラとシリアとイランはシーアの弧だ、そこに問題が集中している」と述べた。(米ニューズウィーク誌7月31日付,,Backstage at the Crisis,,)

 シーアの弧(Shia arc)を“悪の枢軸”と名指ししている形である。

 しかし、このような名指し外交と軍事作戦では、それこそブッシュの言う「根本原因」に取り組むことはできないだろう。

 チャック・ヘーゲル上院議員(共和党、ネブラスカ州)は、「ヒズボラやハマスとの戦いは、戦場では勝利を収めることはできない」と主張し、交渉によってしか出口はないと訴えている。

 ヘーゲルはイラク戦争にも一貫して慎重論を唱えた。

 イラクの失敗を、レバノンでも繰り返す愚だけは避けるべきだろう。

 カギは、イラク戦争とイラク戦後から何を学ぶか、である。

 ブレア英首相は、このほど米ロサンゼルス世界問題協議会で講演し、西欧とイスラム社会の紛争は、「近代化」をめぐる考え方の違いからきているとした上で、次のように述べた。

「われわれの価値体系が、彼らの価値体系をうち負かすに十分なほど力強く、真実で、原則的で、魅力的かどうか、それを示すことができるかどうか、が問われている」

 西欧はイスラム社会にそれを十分に示したのか。

 ブレアは答えている。

「説得する必要がある人々を説得できるところにはとても至っていない」

 ブレアは少なくともブッシュより学習能力は高いようである。


注1 イスラム教シーア派の急進的組織。レバノンにイラン型のイスラム国を建国することを目指している。

注2 ヒズボラの事務局長。7月12日にイスラエル兵8人を殺害、2人を拉致し、今回の対イスラエル戦の口火を切った。

注3 スンニー派と並ぶ、イスラム教の2大宗派の一つ。イラク再建には、全人口の3分の2を占めるシーア派の支持が不可欠といわれる。

注4 パレスチナ解放運動を展開するイスラム原理主義組織。テロ活動が目につくが、パレスチナ評議会選挙で圧勝するなど、今後の中東和平の鍵を握る。