船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.808 [ 週刊朝日2006年10月27日号 ]

記者の仕事はキャリアではない、
それは旅である。ジョニー・アップル挽歌

 ニューヨーク・タイムズ紙のR・W・アップルがこの4日、亡くなった。71歳だった。

 花も実もある記者だった。

 最初に会ったのは1984年の大統領選挙のときだったと思う。

 サンフランシスコ・フェアモント・ホテルで開かれた民主党全国大会を取材した際、コーヒーラウンジでジョニー(とみんな呼んだ)とたまたま話をする機会があり、それ以来のつきあいとなった。

 すでに伝説的な記者だった。

 私は、1975年9月から76年6月、ジャーナリストのための特別研修の機会を得て1年間、ボストンに住んだが、同じプログラムの米国の記者の誰もが、ジョニー・アップルのことを興奮して話していた。彗星のように現れたジミー・カーターに誰よりも早く着目し、彼の選挙運動に照準を当てながらこの年の選挙報道を常にリードしたのがアップルだった。

 アップルの記事には必ず、ニュースがあった。ストーリーがあった。

 肉汁滴(したた)るああいうストーリーは、相手から引き出そうとしてもなかなか出てこない。沸き上がらせる以外ない。そのためには、相手の境遇、条件、来歴、経験、さらには希望と恐怖に感情移入し、相手に話したいと思わせる環境と舞台をつくることだ。

 ジョニーの場合、とっておきのレストラン、とっておきのメニュー、とっておきのワインで、とっておきの話を聞くのが特技だった。

 1993年秋、朝日新聞のアメリカ総局長になったとき、最初に昼食に誘ってくれた一人がジョニーだった。当時、ニューヨーク・タイムズ紙のワシントン支局長だった。

 場所は、1652 Kストリートの魚料理屋、マコーミック&シュミックス(McCormick &S Schmick's)。

 彼の“副官”のアンドリュー・ローゼンソールとコラムニストのトマス・フリードマンの2人を連れて、やってきた。

 注文した生ガキの講釈だけで優に5分間は費やしただろうか。

 何しろ食い道楽だった。

 ニューヨーク・タイムズ紙のラゴス、ナイロビ、サイゴン、モスクワ、ロンドン、ワシントンの支局長を歴任した。ロンドン支局長時代、欧州をくまなく回り、『アップルの欧州』というグルメのための本を記したほどだ。

 トマス・フリードマンは、世界どこへ取材に行ってもマックにぱくつくグローバリゼーション・オタクだが、生ガキ講釈を聞きながら、神妙にしていた。

 ジョニーは特ダネ記者だったが、小さな真実をちりばめた話術(narrative)型の特ダネを得意とした。

 彼の名を一躍有名にしたのが1967年8月6日の日付でサイゴンから送った記事、“Vietnam: The Signs^nof Stalemate”(「ベトナム、膠着状態の兆し」)だった。

「ベトナムの現実を一言で言い表せば、それは膠着状態という言葉に尽きる。ジョンソン大統領はその言葉を使うことを拒否している。しかし、ここでは軍の上層部を除けば、ほとんどの米国人はその言葉こそ、いまここで起こっていることだと見ている」

 記事は、膠着状態に至った13の理由を、現場の声を紹介しながら記した。ベトナム戦争論議に大きなインパクトを与えた。

 後年、彼はQヘッドの書き手として際だった存在となった。

 Qヘッドというのはニューヨーク・タイムズ紙独特の用語で、大ニュースのニュース分析(news analysis)記事のことである。

 ニュース感覚と時代感覚と歴史感覚の三つを要求されるクオリティー(Q)1面記事である。通常、1200語。

 アップルは、締め切りギリギリにめっぽう強かった。クリントン政権時代の末期、米上院がCTBT(包括的核実験禁止条約)の批准を否決したとき、当時、外報部長だったアンドリュー・ローゼンソールが「Qヘッドを1本、お願いします」と依頼した。午後6時だった。

「7時半に家族との重要なディナーがあるのに、なんでこんな時間に急に言ってくるんだ」とか一応、文句を言いながら、彼は書き始め、1時間後に出稿した。SALTII、パナマ運河条約、それからベルサイユ条約にも言及しつつ、米国と世界の緊張を鮮やかに浮かび上がらせた。

 私が覚えているのは、9・11テロの日の彼の書いたQヘッドである。第2次世界大戦のロンドン空襲の際、ジョージ6世(注)が市内を悠然と散歩した姿を国民に示し、国民の気持ちを落ち着けようとしたことをさらりと書いた。テロに対するブッシュ政権の過剰反応を戒めたのである。

 ジョニーのジョージタウンの家にも何度か招待されたし、フォックスホールの私の家にも何度か招待した。

 あるとき、わが家の着席ディナーで彼がいすに座ったとたんに、どうしたことかいすが壊れてしまい、彼はドンと尻餅をついた。ヘビーウェイトだから、アンティークのいすが悲鳴を上げたようだ。

 あのときのジョニーの顔は忘れられない。何かいけないことをして叱られた小学校4年生の男の子のように顔を真っ赤にして小さくなっていた。ご婦人方の前である。私は本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

 ジョン・マケイン上院議員(共和党、アリゾナ州)を最初に紹介してくれたのもジョニーだった。

 ベトナム戦争時代、海軍パイロットだったジョン・マケインと生涯の友のちぎりを結んだ。

「大統領選挙はもう取材したくない」と言うのを何度か聞いたが、1996年も2000年もいそいそと現場に出かけた。

 彼がワシントン支局長をやめ、チーフ・コレスポンデントというタイトルに変わったころ、彼に聞いたことがある。

「なぜ、コラムニストにならないの?」

 彼は、答えた。

「自分は、向かない。最後まで記者(リポーター)でいたい。いずれは、米国の地方を旅したい、人々の話を聞いて、歴史を勉強して、おいしいものを食べて、それを書きたい」

 その言葉どおり、ジョニーはその後、トラベル(兼グルメ)・ライターとして旅立った。

 最後の記事は、2006年10月5日付のニューヨーク・タイムズ紙のトラベル・セクションに載った記事「世界の食い道楽」だった。「そこに行くだけのために飛行機に乗る価値のある世界の10のレストランのリスト」である。

 与えられただけで、何らお返しをできないままのつきあいだった。

 ジョニーから与えられたこと──

 それは、記者とはキャリアを積む仕事ではないということ、そして、記者の仕事とは旅であるということを、その息づかいとともに伝えてくれたことかもしれない。


注 前イギリス国王。1936年に即位、大戦中もバッキンガム宮殿にとどまった。52年死去、娘のエリザベスが王位を継承。