船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.815 [ 週刊朝日2006年12月15日号 ]

英語は“お菓子”ではない。それは世界に生きるための生活の糧である

 安倍内閣発足直後、伊吹文明文科相が、小学校での英語を必修にすることについて「私は必修化する必要はまったくないと思う。美しい日本語が話せないのに外国語をやってもダメだ」と述べた。

 伊吹氏はその後も、基本的に体を維持していく上で大切なのは「たんぱく質やでんぷん質」と、国語などの基礎教科の重要性を訴え、「おいしいケーキや和菓子は余裕があれば食べればいい」と英語を“お菓子”にたとえてみせた。

 小学校の英語必修化は、文科相の諮問機関である中央教育審議会の専門部会が2006年3月、5年生から週1時間程度の必修化を提言、中教審で議論が進められている。

 日本の小学校では2000年度から、国際理解教育の一環として総合学習の時間に英語を使った活動ができるようになった。いまでは公立小学校の94%が何らかの形で英語活動を実施している。子どもに英語を使いこなせるようになってほしいという親の願いは強い。文科省の調べでは、保護者の7割は、小学校での英語必修化に積極的なようだ。

 伊吹発言に対して池坊保子副大臣は「必修化が前提だが、英語活動は週1回必要なのか。それで役に立つのか、もっと検討しないといけない」と述べている。

 池坊氏の言うとおり、「週1回で役立つのか」、現場の英語教師の「英語を教える力」をどうつけるのか、小学校の「英語と遊び、英語に慣れる」習慣をその後の英語教育にどのように生かすのか、だいいち学校教育ではどういう英語力を目標に据えるのか、もっともっと議論が必要だ。

 そもそも、何のために言葉を学ぶのか、何のために日本語、英語、外国語を学ぶのか、という原点から議論をするべきである。

 私は次のように考えている。

 言葉は、社交のために学ぶ。社交とは人間が社会でよりよく、より豊かに生きていく術である。

 日本語は、日本の文化と伝統と価値観を自らのものとし、日本をよく知るための国民として欠かせない言葉である。しかし、日本と日本人は世界の中で孤立して生きていくことはできない。世界の中で世界とともに生きていかなければならない。世界各国もそれぞれの文化と伝統と価値観を持ち、それを大切にしている。他者が大切にしていることを知ることが国際理解のイロハである。外国語はそうした他者を知るために学ぶ。そこから日本を発見し、日本を知ることもまた多いはずである。そして、外国語を使って、日本人の私たちが人間社会を営む上で大切だと思うもの、素晴らしいと思うもの、楽しいと思うものを世界ともっと共有したい。宇宙船地球号。同じように直面する課題に一緒に取り組んでいく。そのためにも学ぶのである。

 どの言葉も同じように人間社会のきらめく結晶である。言葉に貴賤はない。日本語だけが美しいのではない。英語だけがエライのではない。

 しかし、私たち日本人が、日本語に特別な愛着を持つのはこれまた自然のことだ。他の国々の人々もそれぞれの国や民族の言葉に同じように特別の愛着を持っているだろう。

 英語の場合はどうか。

 英語が事実上の国際共通語である以上、それをよりよく使いこなすことが国際社会で自らの機会を追求し、自らの可能性を発見し、自らの志や夢を表現する上で決め手になる。個人の場合も国家の外交の場合もそれは変わらない。

 国家も個人も、そのアイデアと存在を世界でどのように認めてもらい、尊重してもらうか。国も個人も、それを英語で明確に表現し、数多の才能や資質を埋もれさせないようにしないといけない。

 もう一つ、英語を活用することで、日本社会の風通しをよくしたい。日本の内部の議論を英語で外に出すことで、世界中が議論に参入してくる。議論を世界標準に照らし合わせることで、日本人だけのお身内言葉、ご都合主義、以心伝心などは淘汰される。

 さらにもう一つ、個人の可能性を日本から世界へと一気に広げるためにも英語を役立てたい。

 日本社会に厳として存在する年齢、性別、階層、地域、人種、そうしたもろもろの格差と差別が、個人の才能開花と機会均等の前に立ちはだかっている。しかし、これからは日本社会で差別されている(と感じる)人々は、英語をモノにすることによってその壁を乗り越える機会をつかみやすくなるだろう。英語を社会的、経済的な壁を乗り越えるequalizer(解消手段)として活用するべきだ。

 伊吹発言で気になるのは、「日本語を取るか、英語を取るか」といった踏み絵のような、こわばった姿勢である。言葉を二つ以上学ぶ際の相互作用や相乗効果という視点がすっぽり抜け落ちている。

 大多数の国民は、「日本語か英語か」ではなく「日本語も英語も」を学校教育の現場に求めているように思う。人々はなによりもまず「生活者」である。

「美しい日本語」も結構だが、

子どもたちには「生きるための日本語」「生きるための英語」という「生きる力」をつけさせたいと念じているのだ。

 国民は、自分の存在にとって、空気であり酸素であり、血液でありヘモグロビンである言葉をスローガンで絡め取ってほしいとは思っていない。言葉をひからびさせてほしくはないのだ。

 スローガンとは、たとえば「美しい言葉」といったような表現を指す。

「美しい言葉」に触れたい、それを聞きたいという気持ちは誰にもある。ただ、言葉には「寸鉄人を刺す言葉」も「ドキッとさせられる言葉」もある。「悪態」も「罵詈雑言」もある。それらのどれもこれも雑魚寝しているのが生きた言葉である。言葉は生きものであり、社交のプランクトンなのである。白色でも黒色でもかまわない。プランクトンを雑食してこそ、言語動物である私たちは世界でよりたくましく生きることができる。

 英語、中国語、韓国語、ロシア語、スペイン語、ヒンディー語、バハサ語、スワヒリ語……プランクトンはたくさんある。ただ、向こう1世紀は英語を主軸にバイリンガル戦略を練るのが賢明だ。

「なんで英語やるの」

 その答えは、繰り返しになるが、次の3点に尽きる。

▼日本の国家と社会が自らのアイデアと存在を世界にもっとよく知ってもらい、もっと尊重してもらうため。

▼個人が二つ以上の言葉を身につけることで、言語感覚を研ぎ澄まし、より表現力の鋭い、そして豊かな言語空間を社会につくるため。

▼日本社会に生きる個人に、さまざまな壁を乗り越え、持てる力を最大限発揮する言語手段を持たせるため。

 最後に、伊吹さんへ。

 マリー・アントワネット(注)は、フランス革命前夜、民衆にパンがないならお菓子を食べればいいじゃないのと言ったそうですが、英語は“お菓子”ではありません。日本語がご飯なら、英語はパンです。英語は、日本の子どもたちが将来、世界でよりよく生きていくための生活の糧なのです。


注 フランス国王ルイ16世の王妃。「お菓子を食べればいいじゃないの」発言は、のちに別人のものとわかっている。