船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.820 [ 週刊朝日2007年1月26日号 ]

「もう一度、戦果を挙げてからでないと」
イラク増派で思い出した昭和天皇の言葉

 ブッシュ米大統領が、イラクに対する「新戦略」を発表した。

 演壇に立ち、記者団を前にして演説を読み上げるのではなく、夜9時、ホワイトハウスの図書館からのテレビ中継だった。人々が夕食を終わったところで、国民に語りかけるスタイルを取ろうとしたのだろう。

 しかし、ブッシュは国民が聞きたがっていたイラクからの撤退計画には一切触れなかった。逆に、イラクへの2万人の米軍増派を打ち出した。

「宗派間の武力衝突の80%はバグダッドから30マイル以内の地点で起こる」

「イラク成功への最緊急課題は、治安である」

 2万人の増派の大方は、バグダッドとその近辺の治安を守る任務に就くことになる。アルカイダが根拠地としているアンバール地方(注1)には新たに海兵隊4千人を送り込む。

 2003年3月のイラク戦争から4年になるのに米軍はまだ、アルカイダと戦っている。

「イラクの状況は米国にとって受け入れることのできないものである」

「イラクの失敗は米国にとっての災害となるだろう」

 ここまでくると、やるっきゃないのである。

 ただ、「イラクにおいては成功の秘訣はない」。「いままでのイラクでの戦いで間違いがあったとすれば、それは自分の責任である」とも述べた。

 ブッシュが初めて自分の「間違い」に言及した。同時に、次のようにも言った。

「勝利は、われわれの父の時代、祖父の時代に手にしたようなものではないだろう。戦艦の上での降伏式のようなものはないだろう」

 太平洋戦争を念頭においての発言であることは明らかである。テロリズムとの戦いは、ヒロヒト(昭和天皇)やトージョー(東条英機)との戦いのようにはいかない。戦艦ミズーリ号での日本の降伏のような儀式を期待するべきではない、とクギを刺している。

 そんなことを言われなくとも、米国民はすでに悟っている。

 だいたい、イラク占領に当たって、ブッシュ政権内のネオコンたちは、“日本(占領)フォーミュラ”を夢想した。日本の占領があれほどうまくいったのだから、イラクでもうまくいくはずだ……。

 そんな夢はとうの昔に粉砕されてしまった。

 ところで、2万人の増派で何が変わるのか。ブッシュ演説では「治安を改善するため」という以上の説明がない。米国民はとまどったに違いない。

 イラク駐留の13万2千人の米兵はこれまで武装ゲリラ勢力を探しだし、破壊する(search and destroy)を主眼に置いてきた。しかし、これからは米軍がより前面にせり出し、本格的に治安に乗り出すとなると、米軍のプレゼンスが際だつことになるだろう。米兵に対するテロ攻撃はさらに苛烈になる可能性がある。

 次に、米国は、イラクの誰と協力関係を組むのかが明確ではない。

 ブッシュは、この「新戦略」は、イラクのマリキ政権(注2)がこれまで唱えていたことを織り込んだものだとしてマリキ政権との共同作業を強調した。

「ここで後退すれば、イラク政府は崩壊に追い込まれるだろう」

 ただ、同時に「もし、イラク政府がその約束を果たさないならば、米国市民の支持を失い、ひいてはイラク国民の支持を失うだろう」と警告を発している。同政権を信用しているようには見えない。

 ここでは、マッカーサーがヒロヒトと日本占領を“合作”したようにはいかない。

 ブッシュは、演説の中で、イランとシリアの両国を名指しで批判した。

「テロリストと反乱武装勢力がイラクとの間を往来するのに自らの領土を使わせている」

「イランとシリアからの支援の流れを止めるつもりだ。イラクにおけるわれわれの敵に高度の兵器と軍事訓練を与える(彼らの)ネットワークを探しだし、それらを破壊するだろう」

 この点は、ベーカー元国務長官ら超党派の識者たち(ISG=イラク研究グループ)が先に発表した報告書の勧告に正面から挑む形である。報告書は、イラク問題を解決するため、イランとシリアとの直接対話を呼びかけていた。

 ブッシュは再び、悲劇的な間違いを犯したのではないか。

 イランとシリアは、イラクの国内に手を突っ込み、親和力のある勢力への遠隔操作を図っている。イランの核開発が地域の不安定要因であることもそのとおりである。

 しかし、この日の演説で、この両国を仮想敵国のように扱ったことをブッシュはいずれ後悔することになるだろう。彼らは、「新戦略」を破綻させるため、できる限りのことをするに決まっている。

 ブッシュの戦争の目的は戦争開始から4年後の今も、依然、不透明である。

 ボブ・ドール元上院議員(共和党)は、「一体、誰が味方で、誰が敵なのかがわからない」ことがこの戦争の最大の問題であると述べたことがある。

 この演説でも誰が敵なのか、よくわからなかった。

 ブッシュは、あるところではアルカイダと言い、別のところではスンニーの武装勢力と言い、さらに別のところではテロリズムと言った。

 まさに泥沼である。

 泥沼とは、敵の姿が見えなくなることを言う。誰が本当の敵かがわからなくなる状態を指す。

 ブッシュが言うように「イラクの失敗は米国にとっての災害となるだろう」。

 しかし、「ブッシュが行った戦争そのものが災害なのである。それは、ブッシュ自身がつくった災害である」とニューヨーク・タイムズ紙(11日付)は社説で批判した。イラクの現状がかくもひどいことになっているのは自分自身の責任なのに、ブッシュは「たまたまイラクを訪れているツーリストのように話している」(同社説)。

 泥沼はもう一つ、誰が味方か、がわからなくなった状態でもある。それはイラクだけでない。米国内についても言える。ブッシュは、米国民を味方として当てにすることはもはやできないだろう。米国民のブッシュへの信頼は崩壊している。

 ブッシュもそれを知っているからこそ、増派によって敵に一撃をかまし、撤兵に向けての勝利宣言をしたいのだろう。

 それがうまくいくとはとても思えない。

 この点、“日本フォーミュラ”はどうだったか。

 太平洋戦争の末期の1945年2月、昭和天皇は、近衛文麿、岡田啓介、広田弘毅などの首相経験者に戦局の見通しを聞いた。

 近衛は、軍部内の派閥を利用して軍部を抑え、さらには粛軍し、和平に持っていく可能性を追求するとの意見を述べた。

 それに対して、天皇は言った。

「もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う」

 近衛は疑問を呈した。

「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」


注1 イラク西部。ファルージャでは04年、米軍とスンニー派武装勢力が激しく衝突した。

注2 国民議会選挙後の06年5月発足。シーア派、スンニー派、クルド人による呉越同舟の内閣。