船橋洋一の世界ブリーフィング

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No.826 [ 週刊朝日2007年3月9日号 ]

孤立する米国。パクス・アメリカーナの終わりの始まり

 トニー・ブレア英首相が、英軍をイラクから徐々に撤退させると発表した。イラク南部に駐留している7100人の兵士のうち1600人を向こう2、3カ月内に引き揚げる。デンマーク政府も英軍司令官の下にあるデンマーク軍兵士全員、470人を8月までに撤退させる予定である。

 イラク戦争・占領に参画した有志連合(コアリション)はスカスカとなり、いまや米国のもっとも頼りにする同盟国である英国までが米国を見捨てようとしている。

 米国は孤立し、米国民は動揺している。

 ブッシュ政権は今回はあくまで「第1段階」(コンドリーザ・ライス米国務長官)だと、弁明しきりである。

 ブッシュ政権は逆に2万1500人を増派することにしており、それに反対する議会民主党と対決姿勢を強めている。

 チェイニー副大統領は、訪問先の東京で「民主党議会の案(増派拒否)は敗北主義。アルカイダの思うつぼだ」と非難した。しかし、与党共和党のジョン・ウォーナー上院議員(バージニア州)は、「米国民は、大統領が増派しようというまさにそのときに、主要な同盟国が撤退しようとしていることに戸惑いを覚えるだろう」と懸念を表明している。

 撤退か、駐留か。

 そのどちらが、より負け方の少ない道につながるか。どちらが、米国のイメージとパワーに与えるマイナスが少ないか。

 議論はすでにそうした色彩を帯びつつある。

 ウィリアム・オドム元米国家安全保障局(NSA)長官は「撤退すれば、周辺国や中東諸国は米国のありがたみがわかる。それが米国のソフトパワー再生になる」と述べる。

 しかし、米軍があたふたと撤退すれば、イラクは本格的な内戦に突入し、大量虐殺が起こる可能性もある。その場合、米国は責任を追及されるだろう。

 米ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ロバート・サムエルソンは昨年末のコラムで「2006年という年はパクス・アメリカーナ(米国の力による世界平和)の終焉の年だったのかもしれない」と記した。

 サムエルソンは、「第2次世界大戦後、米国が超大国の地位を一貫して維持できたのは、平和と繁栄を維持するのに必要な安定した世界秩序を推進するため、その軍事力と経済力を使ってきたからである」と言う。

 しかし、米国はその役割を果たす力と意思をにわかに失いつつある。 「イラクの泥沼」だけではない。中国の台頭、北朝鮮、イランなどへの核拡散、世界における自由貿易に対する支持の弱まり、米国での国防費を凌駕する社会保障・医療費の増大、日本と欧州という米国の同盟国の衰退、などが米国の安定秩序形成力を弱めつつある、とサムエルソンは主張する。

 たしかに、米国はなお原子力駆動空母、ステルス戦闘機、無人飛行機……などを独占している。しかし、米国の問題はそうしたハードウエア、さらには軍事力というハードパワーにあるのではない。問題は、米国がかつては専売特許のように誇っていたソフトパワーの衰えにある。

 イラク戦争・占領についても、米国パワーの性格への疑問が提起された。

▼大義名分なき戦争と占領政策の失敗により、米国の海外派兵の正当性、さらにはその能力(さらには今後は意思)に対する疑問符がつけられることになった。

▼テロ戦争ばかりを言い立て、中国の台頭、ロシアの強権外交、エネルギー・環境対策など他の重要な挑戦にほとんど正面から取り組んでいない。

▼「イラクの泥沼」に足を取られ、他地域、とりわけ東アジアとユーラシア(ロシアを含む)で指導力をほとんど発揮できていない。

▼アブ・グレイブ監獄の拷問事件(注1)、グアンタナモ基地でのムスリム捕虜の人権侵犯によって米国の理念を傷つけ、人権・民主化推進外交を物笑いの種にしてしまった。

 イラク戦争・占領で、米国が失ったものは大きい。

 英BBCが世界33カ国で行った主要国に対する「好(悪)感度調査」によると、もっとも好感度(「世界にいい影響を与えていると思いますか」)が低い国は米国という結果が出た。

 なるほど、グローバリゼーションは米国の「標準」──マイクロソフトのOSにしろグーグルの検索広告モデルにしろ──で世界を潤すが、同時に、米国の「画一」──GM(遺伝子組み換え)食品にせよ映画の性と暴力の過剰露出にせよ──で世界を劣化させる。かつて世界は、米国の文化と教育にあこがれたが、それはもはやそれほど「クール」とは見なされていない。

 しかも、国際刑事裁判所(注2)にしても、地球温暖化の京都プロトコル(注3)にしても、米国がそれらの国際取り決めに背を向け、「名誉ある孤立」を決め込んでいるケースが多い。そういう米国は「クール」ではない。日本でもそういう感じを抱くのは、例えば次のような時である。

 東京で催される米国の独立記念日と中国の建国記念日のレセプションに招かれ、出席する両国の日本人の「古い友人」たちの顔ぶれは、15年前と様変わりだ。

 かつては米国の独立記念日には、閣僚、自民党派閥トップ、財界人、日本を代表する知米派などお歴々が勢ぞろいしたものだ。いまでは、そうした光景にまず出くわさない。1960年代、70年代にフルブライト留学生で米国に学んだ老フルブライターだけが元気はつらつである。

 一方、中国の建国記念日には、政・官・経済・メディアから有力者がはせ参じる。日本国内の嫌中感もなんのその、お互い肩をたたき合い、カンペイ、カンペイと杯を傾ける。人数もはるかに多い。若い人が目立つ。商売の熱気やゴシップの妖気がむんむん、もやもやしている。

 かといって、中国が「クール」というのではない。中国は「ホット」ではあるが、「クール」ではない。

 中国は自らの安定秩序には夢中だが、世界の安定秩序形成に向けての力と意思はまだない。米国が果たさなければならない役割はまだまだ多い。米国は「名誉ある孤立」に引きこもっていてはいけない。ソフトパワーを再構築する時だ。

 まず、イラクの経験から教訓を引き出すべきである。

●信念ではなく現実に基づいて政策をつくる。

●人に説教する前に、人の言い分を2回聞く。

●世界を知らずして、海外に派兵しない。

●軍事力の行使の前に外交力を最後まで試す。

●「テロ戦争」を廃語にし、「テロ対策」でくくる。

●演繹法(米国イデオロギー)ではなく帰納法(地域の特性)で、地域の安定を築き、それを積み上げて、世界の平和をつくる。

 最後の点をちょっと補足したい。北朝鮮の核問題について、米国は北朝鮮の核保有ではなく核の移転、拡散を事実上のレッドラインとしているが、これなども演繹法(「テロ戦争」イデオロギー)であり、帰納法(北東アジアの地政学的脅威と対応)の観点が不十分であると思う。


注1 バグダッド郊外のアブ・グレイブ刑務所内でイラク人収容者に対し虐待が行われていた事件。04年に発覚。

注2 住民虐殺や人道に対する罪を裁く常設裁判所。米国は反米諸国に利用されるとして反対してきた。

注3 05年発効した地球温暖化防止のための議定書。京都議定書。アメリカは01年に離脱。