船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.836 最終回 [ 週刊朝日2007年5月25日号 ]

「真理は細部に宿る」
デイビッド・ハルバースタム挽歌

 私が、デイビッド・ハルバースタムに最初に会ったのは、1975年冬、米ハーバード大学のニーマン・フェロー・プログラムの席だった。

 ハーバード大学ニーマン財団が、ジャーナリストの視野を広げるため、毎年、十数名の記者に同大学で1年間、勉強する機会を与える、週に2、3回は、「時の人」を講師に招き討論する、そうしたプログラムである。

 部屋に行くと背の高い、胸幅の厚い男がワイン・グラス片手に突っ立っていた。暖炉の火に照らされ、アゴのくびれが、影を深く刻んでいた。

「デイビッド・ハルバースタムです」

 うねるような低音のバス。

 この日の講師のハルバースタムが一番乗りで来ていたのだ。

『ベスト&ブライテスト』(注1)を出版してからまだ、3年ほどのころである。

 それからしばらくしてから、マクジョージ・バンディが講師としてやってきた。

 ケネディ政権の大統領補佐官(国家安全保障担当)。『ベスト&ブライテスト』では、ベトナムの泥沼に米国を引きずり込んだ元凶の一人として告発されている。

 司会役のDが『ベスト&ブライテスト』についての印象を質(ただ)したのに対して、バンディは微笑みながら、一言だけ言った。

「彼は素晴らしい絵描きですね(He is a good painter.)」

 精いっぱいの皮肉だったのだろう。

 Dが口を開くたびに「ドクター・バンディ」と呼ぶのをバンディがやんわりと遮った。

「私はドクターではありません。ご存じかどうか知りませんが……」

 エール大学は満点入学。34歳でハーバード・カレッジ学長。政権入り前はハーバードで最も人気のある政治学教授。神童の誉れが高かった。まさに東部エスタブリッシュメント(支配階級)エリートの典型である。このときはフォード財団理事長だった。

 司会者が自分が質問した本もまともに読んでいないことをも、バンディはちくりと刺したに違いない。

 バンディはエール卒業後、ハーバードの大学院に行ったが、ジュニア・フェローという特別研究生に選ばれた。特に能力のある学生を博士課程から解放し、自由に研究させる。彼らは博士号なしに教授になれる。バンディの大伯父が私財を投じて設立した特待生コースだ──と同書にある。

 その次に、ハルバースタムに会ったのは1982年か83年、東京・青山のカフェだった。

 ハルバースタムは、日米自動車摩擦の取材のため、日本に8カ月滞在する取材を始めたばかりだということだった。なかなか思うようにいかないとぼやいていた。

 彼は、相手の答えが「いいな」「いけるな」と思うと、口写しのようにそれを繰り返す。そして、その言葉を別の表現で言い換えて、そういうことなのか、どうなのか、と聞き直す。それによって、相手の脳裏をもう一皮めくらせ、別の表現や新たな記憶を掬(すく)い出すのだ。相手の気持ちにピタリと身を寄せ、一緒に言葉を練りだしていく。感情移入なんてものではない。もう感情没入だ。

 日本は島国だからとの私の言葉の意味を探ろうとする。

 Ocean connects and ocean^ndivides.(海洋によって日本は世界とつながる。同時に、それによって世界と絶たれる)

 そういうことなのか、どうなんだとメモ用紙に向かってつぶやきながらなにやら書き、私に相づちを求める。私は取材されながら、脳裏を波状にマッサージされたような心地よさに浸った。

 戦争直後のことを聞かれ、私は答えた。

 私の一家は、戦後、中国から引き揚げた。戦後、そのカフェの近くの青山・高樹町に住んだ。小さな庭先に、夫婦のニワトリを飼った。ドイツかぶれの父は、ヘンゼルちゃん、グレーテルちゃんと名付けた。そんな名前をつけたためだろうか、彼らは鶏肉になる運命を免れた……。

『The Reckoning』(注2)が出版されたとき、さっそく本を読んだが、ずいぶんたくさんしゃべったと思った中で、私の発言の引用はこの部分だけだった。

 カフェ取材のとき、私は天谷直弘(注3)にぜひ会うべきだと勧めた。天谷は通産審議官として日本の対米自動車輸出自主規制をまとめ上げたが、自動車業界からは「ラシャメン」などと悪態をつかれた。

 ほどなくしてハルバースタムから電話がかかってきた。すっかり興奮している。

「日本に来て初めて、戦略的な話をしてくれる人に会った。それに彼は文明批評家だね」

 その後、私は朝日新聞のワシントン特派員になったが、一度、マサチューセッツ州ナンタケット島の自宅に招かれた。

 部屋には1950年代から60年代初頭のヒットソングを収めたジュークボックスが置いてあった。60年代末の曲がない。ちょっと不思議な気がした。「ボートを漕ぐのがなによりの楽しみ」と言っていた。

 その後も、彼とは何度か会った。電通総研社長となった天谷の招待で来日したときは、ジャッキー・ロビンソン(注4)がいかに偉大な選手だったかを繰り返し、1950年代が実は革命的な時代だったと熱く説いていた(このテーマは後に『The Fifties』(注5)に結実する)。

 彼によってニュージャーナリズムは大きな花を咲かせることになった。

 現場に密着取材し、人々の体験を記憶の襞(ひだ)のところで掘り起こし、それを事実の袋とじとしてつかみだし、そこに宿る真実に迫る。

「真理は細部に宿る」のである。

 けっして美文ではない。文章も長い。

「ハルバースタムには鬼デスクが必要だ」

 などとジャーナリズム論の大家からは手厳しい評価を受けた。

 しかし、ハルバースタムの書くモノには必ず物語(ストーリー)があり、そこには数多の小さなダイヤが、つまり真実の断片がちりばめられている。

 ハルバースタムがまだニューヨーク・タイムズ紙のベトナム特派員だったとき、ケネディが、ニューヨーク・タイムズ紙を大統領執務室の机にたたきつけて、スタッフを怒鳴りつけた。

「なぜ、ハルバースタムが書いているようなことが、政府から自分のところには上がってこないんだ」

 ベトナムのquagmire(泥沼状態)が始まっていた。この言葉はハルバースタムが使いだしたという。

 あれから30年。

 米国はイラクで泥沼状態に喘(あえ)いでいる。

 トヨタはGMを抜いて、世界一の自動車企業にのし上がった。

 4月23日。ハルバースタムはサンフランシスコでのプロフットボールに関する本の取材からの帰り、自動車事故で亡くなった。73歳だった。


注1 指導者たちがなぜベトナム戦争という泥沼にアメリカを導いたのかを検証したリポート(1972)。

注2 日本語版は、『覇者の驕り──自動車・男たちの産業史』(高橋伯夫訳・日本放送出版協会、1987)。

注3 1979年から81年、通産審議官。「日本町人国家論」で知られた論客。94年死去。

注4 アメリカの元プロ野球選手。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた黒人選手。

注5 『ザ・フィフティーズ』(金子宣子訳・新潮社、1997)。