HOME / 街道をゆく / 第8巻 熊野・古座街道、種子島みち ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ熊野・古座街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1975年4月 司馬さんは西日本の習俗である若衆組に思いを馳せながら、友人のKさんに伴われ、古座の川丈七カ村を旅する。白浜駅から国道42号、むかしの大辺路を南下し、周参見から内陸の古座街道へ入る。雫の滝を経て、かつての山中の川港・真砂、洞尾の一枚岩へ。川原で山菜や川魚など土地の料理を供された後、明神の集落まで古座川下りをする。明神でKさん宅を訪ね、潜水橋、かつての若衆宿の建物を見て、河内神社の前を通り、河口の町・古座で旅を終える。
豊後・日田街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1975年8月3日~6日 大分県の由布院と日田を訪ねた。由布院では、若い当主・中谷健太郎氏が経営する宿(亀の井別荘)に泊まり、中谷氏らが推し進める由布院の「町づくり」の気運を体感した。途中にある九重高原の長者原、近世に森藩があった玖珠町にも寄って日田へ。日田では、鵜飼いを見たり、近世の名教育者・広瀬淡窓の史跡を回ったりしたが、むしろ旅館の仲居さんの話や理髪店の客同士の会話などから、天領として栄えた時代に培われた日田の風土を実感することになった。
大和丹生川(西吉野)街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1975年9月7日~8日 この年の春、若衆組の残像に触れるために熊野・古座街道を訪れた司馬さんは、同じ紀伊半島の大山塊から流れる吉野川、丹生川の川筋も訪ねてみようと思い立つ。下市町から唐戸、十日市、鹿場とまわるが、若衆組の記憶を持つ人には遂に出会わなかった。日本の土俗の風習である若衆組は、奈良盆地に近いこの西吉野では中央の指導が行き渡り、<あとかたもなく消えてしまった>のだろうと考える。
種子島みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1975年9月28日~30日 薩摩の士族文化の残像が濃厚に遺されているのではないか――司馬遼太郎はそんな思いから種子島へ旅する。大阪からの直行便で種子島空港に着いた司馬さん一行は、旧友である薩摩の陶工・14代沈寿官氏と合流し、島主種子島家の旧城下・西之表の市長で郷土史家でもある井元正流氏らの案内で島の北部へと向かった。島の北西に浮かぶ馬毛島でかつて鹿狩りを催した西郷隆盛の側近・桐野利秋と田上権蔵ら種子島士族の間に生じた確執に、司馬さんは種子島と薩摩本藩との間にあった相克を考える。種子島西岸を北上した一行は、砂鉄を含む土が独特の風合いを生んだという能野焼の古い窯跡や砂鉄を採った海岸の集落をめぐる。種子島は鉄砲伝来以前から鉄の島であった。その夜、西之表のホテルで沈寿官夫妻や種子島家当主の弟・種子島時哲氏らと宴を囲む。翌日は種子島家歴代の墓に参った後、島北端の喜志鹿崎から黒潮の流れを望み、鉄砲を紀州根来をはじめ全国にひろめたであろう海上の道を思う。3日目、司馬さん一行は鉄砲伝来の地・門倉岬をめざし島の南部を訪ねる。千座の岩屋という奇岩名勝が名高い熊野浦では、その地名に紀州熊野とのつながりを想像するのだった。
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