司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ

湖西のみち湖西のみち

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【旅の時期】 1970年、粉雪の舞う季節

『街道をゆく』の旅で司馬遼太郎が最初に訪れたのは「楽浪の志賀」と呼ばれた湖西であった。日本人の祖形を求める司馬さんは、車で湖西のみちを北上しながら、「楽浪」は朝鮮半島(新羅)の楽浪と関係があるのか、繋がりの痕跡をさがす。古い漁港の北小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないか。安曇川町の集落では、水辺を好んで居住してきた安曇族に思いをはせる。朽木谷へ入ると、この長大な渓谷を退却した織田信長の凄みに心を奪われた。信長を助けた松永弾正と朽木元綱にも話は及ぶ。朽木氏の館があった野尻、さらに市場という集落を抜け、岩瀬の曹洞宗興聖寺、境内に残る足利義晴の庭園跡を再訪した司馬さんは、かつて見た情景を語る。


北小松


琵琶湖

北小松の集落
古くからの漁港町。家々の軒は低く、紅殻格子を目にしたと司馬さんはいっている。
白鬚神社
近江最古の神社で、祭神は猿田彦。琵琶湖中に立つ大鳥居が印象的。本殿は国の重要文化財。
滋賀県高島市鵜川215
安曇川町の集落
朽木渓谷を源流とする安曇川が集落を流れ、アユ漁が盛ん。近江聖人・中江藤樹の生誕、終焉の地。
朽木渓谷
越前朝倉攻めの折、織田信長が京への退却の途についた山道「鯖街道」が通る。
野尻、市場の集落
朽木村野尻には、朽木氏の館があった。市場は、毎週日曜日、祝日に朝市で賑わう。
興聖寺 旧秀隣寺庭園(足利庭園)
かつて朽木氏の檀那寺で、近江曹洞宗の巨刹。本尊の釈迦如来坐像は国の重文。境内の庭園跡は12代将軍足利義晴のために造園されたといわれる。国の名勝。
滋賀県高島市朽木岩瀬374

司馬遼太郎 街道をゆく | 第1巻 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

司馬遼太郎 街道をゆく 1

湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

竹内街道・葛城みち竹内街道・葛城みち

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竹内街道 旅のルート竹内街道旅のルート

【旅の時期】 1970年ごろ

古代の倭王権についての興味を胸に、若き日本語学者、ロジャ・メイチン君を道連れにして石上神宮を訪れた。うっそうとした「布留の森」を歩き、崇神天皇の時代に思いを馳せる。次に、山辺道に沿って南下して大神神社でも森を歩き、その御神体である三輪山と古代王権について考えた。大阪への帰り道は、そこから奈良盆地を横断し竹内峠を越えることにした。叔父のことなどを思い出しながら、司馬さんの母方の実家があった竹内集落を抜けたところで車が故障し、止まってしまう。筆はそこで留められている。

石上神宮
神武天皇に捧げられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」を御神体とする。国宝の拝殿、七支刀(七枝刀)ほか貴重な宝物を多数所蔵。
奈良県天理市布留町384
大神神社
三輪山を御神体とする古社。祭神は大物主神。拝殿のみで本殿を持たない。国史跡。
奈良県桜井市三輪

葛城みち 旅のルート葛城みち旅のルート

【旅の時期】 1970年または71年

葛城地方の古代に思いを馳せながら葛城古道を南下した。笛吹部の先祖・笛吹連を祀る笛吹神社から、葛城氏の先祖・一言主神を祀る一言主神社へと進みながら、一言主神と雄略天皇、鴨氏の一族とされる役行者(役小角)などを思い起こし、葛城の古代氏族と倭王権の関係を考える。さらに鴨氏の先祖を祀る高鴨神社へ至り、その周辺の景観は古代から変わっていないのではないかと思う。

笛吹神社
正しくは葛木坐火雷神社。祭神は火雷神と笛吹連の祖神。周辺は一大古墳群をなしている。
奈良県葛城市笛吹448
葛城坐一言主神社
延喜式に載る古社。「葛城の神」一言主神を祀る。「一言さん」と呼ばれ広く親しまれている。
奈良県御所市森脇432
高鴨神社
古代にこの地方にいたと思われる鴨氏の氏神。本殿は重文。
奈良県御所市鴨神1110

司馬遼太郎 街道をゆく | 第1巻 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

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湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

甲州街道甲州街道

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【旅の時期】 1970年5月23日

甲州街道を車で八王子に向かう前に、司馬遼太郎はまず、太田道灌が詠った武蔵野の広さや、『更級日記』に出てくる坂東人を思う。秀吉が小便をしながら家康に関東を与えた逸話や、直臣団の八王子千人同心、街道沿いの村出身の近藤勇ら新選組幹部を思い、車中では美しい同行者・Hさんと徳川慶喜について話す。八日町で在野の慶喜研究者・Kさんに会い、小仏峠に向かう途中、駒木野で道をまちがえて引き返し、車を降りて高尾山内の旧道を歩く。慶喜が身を引いた後も、軍を率いて甲府に向かった近藤勇らを思い浮かべつつ小仏峠を目指すが、途中で断念し、戻った八王子でKさんたちと再び慶喜談義となる。

八日町
JR八王子駅の北側に広がる繁華街。司馬遼太郎が徳川慶喜について語り合ったKさんの履物屋もここにあったが、今は廃業した。
甲州街道駒木野宿跡
小仏峠に至る旧甲州街道の小仏関所跡と並んでいる。

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湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

長州路長州路

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【旅の時期】 1970年6月

司馬遼太郎は、明治維新の推進力となった長州人の怜悧と猪突猛進を併せ持つ気風に興味を示し、長州人に関する3つの謎を解くことを望みつつ旅立った。関門海峡をこよなく愛する司馬さんは、下関の「阿弥陀寺町」「壇之浦町」といった地名に「海峡漁師」や坂本龍馬ら幕末の志士たちの宴会を思い浮かべる。さらにこの地に立つ「赤間神宮」の初代宮司・白石正一郎の悲哀を思う。そして話は、海と長州というテーマへ。大内・毛利時代に「海上の王」として君臨した長州の革命を推し進める原動力を海に見る。湯田温泉の老舗の宿で湯につかり、山口市内の瑠璃光寺へ向かった司馬さんは五重塔の尋常ならざる古色に圧倒され、大内文化の深さ、優しさを思う。山口から一路津和野を目指す途中、野坂峠から津和野城下を眺め、津和野藩が感じた長州藩への脅威を実感し、森鴎外、西周など学者を多く生み出した小藩津和野の複雑な立場を理解する。


旧山口藩庁門


壇ノ浦


壇ノ浦

壇之浦
源平合戦、馬関戦争の舞台となった関門海峡を望む一帯。古くから海岸沿いに海峡漁師が住みつき、幕末頃には飲み屋街として栄えた。
山口県下関市壇之浦町
赤間神宮
幕末の商人・白石正一郎が初代宮司を務めた神社で、源平合戦で幼くして壇之浦の海に散った安徳天皇を祀る。境内に安徳天皇陵、平家一門の墓などがある。
山口県下関市阿弥陀寺町4-1
松田屋ホテル
司馬遼太郎が宿泊した宿。300年余の歴史を誇り、幕末の志士や公卿も宿泊した。回遊式庭園には西郷・木戸・大久保会見所の東屋も残る。
山口県山口市湯田温泉3-6-7
瑠璃光寺五重塔
嘉吉2年(1442)に大内義弘を弔うために弟の盛見が建立した。日本三名塔のひとつと称えられる国宝。
山口県山口市香山町7-1
井上馨遭難地(袖解橋周辺)
元治元年(1864)、長州藩士で正義派の井上馨が藩内保守派に斬りつけられた場所。湯田の自宅への帰路に瀕死の重傷を負ったが一命はとりとめた。
山口県山口市中園町53-2
旧山口藩庁門
毛利敬親が文久3年(1863)に着工した藩庁の門。藩庁跡は現在県庁となっている。旧県庁(国重要文化財)も隣接している。
山口県山口市滝町1-1
野坂峠
長州(山口県)と石州(島根県)の境の峠。野坂峠を過ぎて国道9号線沿いをゆくと、津和野城下を一望できる。
島根県津和野町中座
森鴎外旧宅
津和野藩藩医の家に生まれた明治の文豪・森鴎外の生家。
島根県津和野町町田イ230
殿町
藩校や家老屋敷が並ぶなまこ壁の町並み。側溝には津和野を象徴する鯉と菖蒲(5月~6月)が見られる。
島根県津和野町後田
医光寺
正平18年(1363)、益田兼弘のとき創建された。庭園は、第5代住職の雪舟作。
島根県益田市染羽町4-29

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湖西のみち、甲州街道、長州路ほか

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この巻の目次この巻の目次

  • 【湖西のみち】楽波の志賀/湖西の安曇人/朽木渓谷/朽木の興聖寺
  • 【竹内街道】大和石上へ/布留の里/海柘榴市/三輪山/葛城山/竹内超
  • 【甲州街道】武蔵のくに/甲州街道/慶喜のこと/小仏峠/武州の辺疆
  • 【葛城みち】葛城みち/葛城の高丘/一言主神社/高鴨の地/
  • 【長州路】長州路/壇之浦付近/海の道/三田尻その他/湯田/奇兵隊ランチ/瑠璃光寺など/津和野から益田へ/吉田稔麿の家

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