HOME / 街道をゆく / 第1巻 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ湖西のみち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1970年、粉雪の舞う季節 『街道をゆく』の旅で司馬遼太郎が最初に訪れたのは「楽浪の志賀」と呼ばれた湖西であった。日本人の祖形を求める司馬さんは、車で湖西のみちを北上しながら、「楽浪」は朝鮮半島(新羅)の楽浪と関係があるのか、繋がりの痕跡をさがす。古い漁港の北小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないか。安曇川町の集落では、水辺を好んで居住してきた安曇族に思いをはせる。朽木谷へ入ると、この長大な渓谷を退却した織田信長の凄みに心を奪われた。信長を助けた松永弾正と朽木元綱にも話は及ぶ。朽木氏の館があった野尻、さらに市場という集落を抜け、岩瀬の曹洞宗興聖寺、境内に残る足利義晴の庭園跡を再訪した司馬さんは、かつて見た情景を語る。
竹内街道・葛城みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 竹内街道旅のルート【旅の時期】 1970年ごろ 古代の倭王権についての興味を胸に、若き日本語学者、ロジャ・メイチン君を道連れにして石上神宮を訪れた。うっそうとした「布留の森」を歩き、崇神天皇の時代に思いを馳せる。次に、山辺道に沿って南下して大神神社でも森を歩き、その御神体である三輪山と古代王権について考えた。大阪への帰り道は、そこから奈良盆地を横断し竹内峠を越えることにした。叔父のことなどを思い出しながら、司馬さんの母方の実家があった竹内集落を抜けたところで車が故障し、止まってしまう。筆はそこで留められている。
葛城みち旅のルート【旅の時期】 1970年または71年 葛城地方の古代に思いを馳せながら葛城古道を南下した。笛吹部の先祖・笛吹連を祀る笛吹神社から、葛城氏の先祖・一言主神を祀る一言主神社へと進みながら、一言主神と雄略天皇、鴨氏の一族とされる役行者(役小角)などを思い起こし、葛城の古代氏族と倭王権の関係を考える。さらに鴨氏の先祖を祀る高鴨神社へ至り、その周辺の景観は古代から変わっていないのではないかと思う。
甲州街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1970年5月23日 甲州街道を車で八王子に向かう前に、司馬遼太郎はまず、太田道灌が詠った武蔵野の広さや、『更級日記』に出てくる坂東人を思う。秀吉が小便をしながら家康に関東を与えた逸話や、直臣団の八王子千人同心、街道沿いの村出身の近藤勇ら新選組幹部を思い、車中では美しい同行者・Hさんと徳川慶喜について話す。八日町で在野の慶喜研究者・Kさんに会い、小仏峠に向かう途中、駒木野で道をまちがえて引き返し、車を降りて高尾山内の旧道を歩く。慶喜が身を引いた後も、軍を率いて甲府に向かった近藤勇らを思い浮かべつつ小仏峠を目指すが、途中で断念し、戻った八王子でKさんたちと再び慶喜談義となる。
長州路※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1970年6月 司馬遼太郎は、明治維新の推進力となった長州人の怜悧と猪突猛進を併せ持つ気風に興味を示し、長州人に関する3つの謎を解くことを望みつつ旅立った。関門海峡をこよなく愛する司馬さんは、下関の「阿弥陀寺町」「壇之浦町」といった地名に「海峡漁師」や坂本龍馬ら幕末の志士たちの宴会を思い浮かべる。さらにこの地に立つ「赤間神宮」の初代宮司・白石正一郎の悲哀を思う。そして話は、海と長州というテーマへ。大内・毛利時代に「海上の王」として君臨した長州の革命を推し進める原動力を海に見る。湯田温泉の老舗の宿で湯につかり、山口市内の瑠璃光寺へ向かった司馬さんは五重塔の尋常ならざる古色に圧倒され、大内文化の深さ、優しさを思う。山口から一路津和野を目指す途中、野坂峠から津和野城下を眺め、津和野藩が感じた長州藩への脅威を実感し、森鴎外、西周など学者を多く生み出した小藩津和野の複雑な立場を理解する。
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