HOME / 街道をゆく / 第3巻 陸奥のみち、肥薩のみち ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ陸奥のみち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1971年11月 八戸空港に到着。翌日、根城跡を訪れ、樹齢600~700年の銀杏の大木を見る。馬淵川沿いに南下し、櫛引八幡宮で甲冑を見て、階上、軽米を経ながら、かつて高山彦九郎も通った白樺の久慈街道をゆく。久慈の巽山公園で江戸期の代官所跡や、柔道の三船久蔵十段留魂之碑を見てから、陸中海岸沿いの浜街道(ミナト街道。明治40年代に柳田国男も歩いている)を北上し、八戸へ。板橋、侍浜、小子内、種市を経て種差海岸に向かう。八戸の旅館・石田家で夕食。翌朝、八戸から百石、十和田、陸羽街道を経て北上後、野辺地に到着。下北半島を見る。浜へ下りると、津軽と南部の藩境を示す「四ツ森」とよばれる藩境塚があった。
肥薩のみち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1972年3月22日~24日 熊本空港に降り立った司馬遼太郎一行はまず、熊本市の北隣の植木町(現・熊本市北区植木町)に西南戦争の古戦場として名高い田原坂を訪れる。司馬さんは、この地になお残る激戦の跡を目の当たりにし、関ケ原以来の肥後・薩摩の歴史的な対抗関係について思いを巡らし、さらに西郷隆盛という存在の歴史的な巨大さを考える。一行は八代に下り八代城跡を見た後、球磨川に沿って上流へさかのぼり、人吉で荷をほどく。鎌倉時代から700年近くにわたってこの地を治めた大名・相良氏の治績を訪ねた司馬さんは、その家系の歴史と世界史における日本の消長を重ね合わせる。人吉から肥薩の国境・久七峠を越え鹿児島に入った一行は浄土真宗の寺を見て、真宗の禁圧と隠れ門徒の存在に思いをいたす。川内を経て鹿児島市に向かう途上、苗代川の陶芸家・14代沈寿官の家に立ち寄る。司馬さんはかねて旧知の沈壽官の内面に、古い薩摩士族の面影を見出す。鹿児島市内で宿をとった後、沈壽官に勧められた蒲生を訪れた司馬さんらは、武家屋敷の青みがかった石垣に、この町に伝わる薩摩士族の気風を感じるのだった。
河内みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1972年ごろ 東大阪市に住んでいた司馬さんにとって、河内はご当地。自宅を拠点として、<古代にあっては王城の地だった>河内を旅する。富田林から高貴寺にのぼり、高貴寺ゆかりの空海、慈雲に思いを馳せる。西行のことを考えながら、司馬さんは葛城山のふもとの弘川寺へ向かい、西行の墓といわれる古墳を見る。楠木正成のことなどを思いつつ、観心寺のそばの宿へ<一泊の散歩>をしたあと、大ケ塚に出かけ、八朔の祭りを楽しむ。
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