製鉄という技術の発達が人類の文明にとっていかに重要な契機となってきたか。司馬遼太郎は、鉄に対する長年の関心から、出雲から吉備にかけてのたたら製鉄の跡を訪ねる。作家の金達寿氏、考古学者の李進熙氏、そして雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を主宰していた鄭貴文と鄭詔文の兄弟も同行した。米子空港に降りた一行はまず雲伯国境の安来市に入り、「和鋼記念館」を見学する。続いて八岐大蛇が退治されたという鳥上山(船通山)の麓で砂鉄による製鉄を行う鳥上木炭銑工場を訪れた。翌日は宍道湖畔を西進、光明寺で朝鮮鐘と対面し、斐伊川をさかのぼって吉田村(現・雲南市吉田町)で、現存する日本唯一の近世たたら遺構「菅谷たたら」を訪ねる。さらに出雲街道の難所・四十曲峠を越えて岡山に入り、湯原温泉で荷をほどく。3日目は加茂町(現・津山市加茂町)で古代製鉄を統御した豪族の墳墓とされる万灯山古墳や、桑谷の近世たたらの遺跡を回る。最後は森氏の城下町・作州津山に入り、藩お抱えの鋳物師の末裔で先祖は百済王敬福であるという「百済質店」主人に出会って、改めて朝鮮半島から連なる製鉄文化の流れを実感するのだった。