HOME / 街道をゆく / 第7巻 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ甲賀と伊賀のみち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1973年春 伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。
大和・壺坂みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1973年ごろ 奈良県の地図を見ていて壺坂山、高取山に登りたくなった司馬さんは、今井町にも寄ることにする。大和八木駅から今井町に入り、ゆるやかに流れる時間を味わう。壺坂へ向かう途中、高松塚古墳に立ち寄る。城下町の土佐から高取城への急斜面を登り、本丸を目指す。頂上からの眺めを楽しみ、壺阪寺へ向かって降りていく。
明石海峡と淡路みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1974年11月 明石に着いた司馬遼太郎は、魚ノ棚商店街を歩いたのち、林崎漁港を目指し、農民国家であった日本で、漁師はどういう位置にあったかを考察する。播淡汽船で船上からの夕日に「西方浄土」を感じつつ、岩屋に上陸。古代海人さながらの漁師との会話を楽しみ、石屋神社を訪れる。淡路島の国生み伝説と古代淡路の海人について考えた司馬さんは、洲本では宮本常一と堂浦一本釣り漁師について思いをはせ、由良の漁協の組合長と語り合う。洲本城見学ののち、国分寺、慶野松原、郡家、伊弉諾神宮を巡り、松がマツクイムシにひどく荒らされている現状を嘆いた司馬さんは、背後にある土地投機問題を指摘し、日本の未来に警鐘を鳴らす。
砂鉄のみち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1975年1月6日~8日 製鉄という技術の発達が人類の文明にとっていかに重要な契機となってきたか。司馬遼太郎は、鉄に対する長年の関心から、出雲から吉備にかけてのたたら製鉄の跡を訪ねる。作家の金達寿氏、考古学者の李進熙氏、そして雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を主宰していた鄭貴文と鄭詔文の兄弟も同行した。米子空港に降りた一行はまず雲伯国境の安来市に入り、「和鋼記念館」を見学する。続いて八岐大蛇が退治されたという鳥上山(船通山)の麓で砂鉄による製鉄を行う鳥上木炭銑工場を訪れた。翌日は宍道湖畔を西進、光明寺で朝鮮鐘と対面し、斐伊川をさかのぼって吉田村(現・雲南市吉田町)で、現存する日本唯一の近世たたら遺構「菅谷たたら」を訪ねる。さらに出雲街道の難所・四十曲峠を越えて岡山に入り、湯原温泉で荷をほどく。3日目は加茂町(現・津山市加茂町)で古代製鉄を統御した豪族の墳墓とされる万灯山古墳や、桑谷の近世たたらの遺跡を回る。最後は森氏の城下町・作州津山に入り、藩お抱えの鋳物師の末裔で先祖は百済王敬福であるという「百済質店」主人に出会って、改めて朝鮮半島から連なる製鉄文化の流れを実感するのだった。
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