HOME / 街道をゆく / 第9巻 信州佐久平みち、潟のみち ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ潟のみち旅のルート【旅の時期】 1975年11月 耕作に適した土地に恵まれなかった人々が、それでも苦労して田畑を拡げていった歴史に興味をひかれた司馬さんは、新潟の低湿地を訪れた。まず、信濃川と阿賀野川の中州にできた亀田郷を訪ね、亀田郷土地改良区の事務所で佐野藤三郎理事長の話を聞いたり、排水機場や鳥屋野潟を見学して、低湿地を水田に変えていった労苦を思う。ついで、阿賀野川を渡って豊栄市(現・新潟市)では、全国に名をとどろかせた木崎村小作争議の話を、当時を知る古老たちに聞いた。翌日は、この旅行のもう一つの用事として、村松町の山中に、友人で詩人のぬやまひろし氏の息子さんらがやっている「新潟・中国語講座・上杉専門課程研修所」を訪ねた。 ※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります
播州揖保川・室津みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1976年3月22日~23日 『播磨灘物語』の主人公・黒田官兵衛が一時居城としていた山崎を訪れたいと考えた司馬さんは、西播州の生まれで少年時代をこの地で過ごした歌人の安田章生氏とともに揖保川沿いに車を進める。古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、安田氏の母校・山崎小学校で山崎城のわずかな名残を見る。龍野では三木露風を心に浮かべる。揖保川を下り、奈良朝以来の港である室津に宿をとった司馬さんは、現在のものさびた町並みを前に、中世、外洋を航海した船のことや、四国に流される途上でこの地に立ち寄った法然上人に思いをはせる。
高野山みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1976年6月5日~6日 空海の開創した高野山をめざす司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南へ越えて麓の九度山に入る。真田父子の悲運に思いをいたし、慈尊院で空海の母を思う。九度山から高野山へ登る町石道は当時荒れ果てて廃道同様になっていた。その入り口で、司馬遼太郎は鬱然とした樹々の木下闇に、深山幽谷に引き込まれていくような畏れを感じた。高野聖たちが空海と浄土信仰を結びつけたことを思い、その晩遅くに山内へ上がる。翌日、旧知の西南院住職の案内で、奥の谷に入り、修行僧たちが念仏を専修する真別処を訪ねる。森閑とした域内に佇む沙羅双樹の木を見て、司馬遼太郎はインド仏教の原思想とそれを移入した日本文化との関係に思いを巡らせる。
信州佐久平みち※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1976年7月25日~27日 旅の前、司馬さんは信濃の地図を眺めて、信濃には更級や蓼科など「科(級)」のつく地名が多いことに気付き、その意味を考える。また桜井や海野などという地名から、桜井氏や海野氏など、中世信濃武士団の興亡を思う。旅の起点はJR長野駅。最初の宿泊地・別所温泉に行く途中、上田市の商店街の街灯に真田六文銭のマークがあるのを見て、上田が「真田氏の町」であることを実感する。別所温泉では、この地を訪れた捨聖・一遍の、すべてを捨てて求道をつらぬいた生を考える。翌朝、常楽寺、安楽寺を訪ね、午後は臼田の佐久総合病院に入院中の知人(詩人のぬやま・ひろし)を見舞う。南軽井沢に泊まった翌日、旧中山道沿いの望月宿をめざした。その途中、昼食を食べるために立ち寄った岩村田の蕎麦屋のテレビで田中角栄前首相の逮捕を知る。望月は平安朝の御牧のあった所。信州の騎馬が木曾義仲の軍事の要だったこと、清少納言『枕草子』の望月宿の記述へ思いをはせ、旅を終える。
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