司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1978年6月 松山空港を出た司馬遼太郎は、松山市内の伊予豆比古命神社の豪壮な長屋門に注目、宮司と話した後、重信川を越えて砥部焼の町、砥部町に入る。窯元「梅山窯」で砥部焼制作を見学して知人と再会したのち、大洲を目指す。途中、古い町並みの残る内子を通り過ぎ、大洲城下町の肱川と城山が織りなす<刺繍画のような>風景を楽しみにしていた司馬さんは、城跡の隣に建てられたコンクリートの建物に失望する。南下して卯之町へ入った司馬さんは、明治時代に建てられた「開明学校」に立ち寄り、明治期の教育資料に触れて日本語教育について考察。通りに出てからは、江戸期にこの町に住んだ蘭学者・二宮敬作や彼に学んだシーボルトの娘・イネに思いをはせる。さらに南下して法華津峠を越えた司馬さんは、吉田を経て宇和島に至る。途中、農民の側に立って死んでいった宇和島藩惣奉行の山家清兵衛と吉田藩家老・安藤儀太夫継明のことを考える。宇和島では、念願の寄合酒を行い、土地の人々との交流を楽しむ。高知県との県境の町・松野に入ると、江戸時代の目黒村山境争いのことを思い、建徳寺で当時つくられた山型模型を見て感嘆。土佐側へ抜けた後は四万十川に沿って中村に向かった。
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