安芸と備後とから成る広島県を司馬遼太郎は、広島駅を起点に国道54号を吉田と三次を目指して北上する。上根のあたりで川が日本海に向かって流れていることに気がつき、古代の広島県は瀬戸内海よりも日本海文化圏に入っていたのではないかと考える。2泊した吉田では戦国大名毛利元就ゆかりの郡山城趾や猿掛城跡を訪れる。地元で今なお慕われ続ける元就は「領民撫育」と「一郷団結」の方針をもつ人物で、そのことがのちに幕末、長州藩が身分を超えて団結する気風につながったと指摘する。吉田郊外の浄土真宗高林坊も訪れる。三次では町の名の由来を考える。岩脇古墳の丘の上から幾筋もの川が渦巻く三次盆地を見下ろしながら、思いははるか古代へとさかのぼる。三次に点在する古墳群は古代朝鮮から渡来し、出雲に定着したタタラ衆の墓ではないか――と想像する。三次で1泊し、最終日には鳳源寺を訪ねて古い城下町の雰囲気を愛でる。