司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページパリ・ピレネー※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1982年9月27日~10月16日 フランス・スペイン・ポルトガル3国にわたる司馬遼太郎の旅は、<「南蛮」とはなにかということをこの旅で感じたい>という<ごく単純>な動機で始まった。日本に初めて南蛮文化をもたらした宣教師の一人フランシスコ・ザヴィエルは、スペイン・ナバラ地方出身のバスク人であり、青年時代にパリで学んでいた。司馬さんはまず、パリの学生街カルチェ・ラタンを訪ね、ザヴィエルの<青春の痕跡>を追う。やはりスペイン・バスク出身のロヨラはパリでザヴィエルと出会い、二人はやがてイエズス会を結成する。司馬さんは二人のバスク人キリスト者のなかに対照的な精神性を感じとった。パリを離れた司馬さんは、スペイン国境沿い、ピレネー山麓のバスク地方へと向かう。フランス・バスクの中心バイヨンヌは都市化され、バスク文化を特別に感じることは少なかったが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の宿場町サン・ジャン・ピエ・ド・ポールとその周辺の農村の風景のなかに、司馬さんは<浮世の国ではない>バスク独特の気配を感じとるのだった。このあと一行はピレネー山脈を越え、スペイン・バスクへと向かい、ポルトガルへと足を延ばす。
バスク※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1982年9月27日~10月16日 ピレネー山中の国境の村アルネギーを越えて、司馬さん一行は、バスク自治州とナバラ自治州からなるスペイン・バスクに入った。武勲詩『ローランの歌』の舞台となったローラン戦死の地とされるロンセスバージェス、ヘミングウェイが鱒釣りを楽しんだ村ブルゲーテを経て、ナバラの州都パンプロナを車窓に見ながら、フランシスコ・ザヴィエルの生家である古城ザヴィエルまで、一行を乗せたバスは駆け抜ける。ザヴィエル城を管理するアルベルディ修道士は、夕暮れに突如現れた異邦からの来訪者を歓待する。修道士の心のこもったもてなしとザヴィエル城の質朴な造作に深い感銘を受けた司馬さんらは、続いて同じくバスク出身の宣教師イグナティウス・デ・ロヨラの生地であるロヨラ城(聖堂)を訪ねるが、後代改修されたバロック様式の過剰な装飾になじめない。続いて一行は、ビスケー湾に面する海バスクへと向かう。南仏風の海浜都市サン・セバスチャンで司馬さんは、バスク人の<フランス好きとスペインぎらい>に思いをめぐらす。バスク自治州の首都ビトリアで面会した自治政府の大統領に人格的魅力を感じとった司馬さんは、バスク語の回復を通じたバスク文化の復興のなかにバスク国の将来の可能性を思うのだった。
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