司馬遼太郎は、平安期の貴族・文人の奥州こがれの歴史をふりかえりつつ、白河へと旅立つ。まずはふたつの白河の関跡や関東と奥州の境に立ち、幽邃な空間で古代に思いを馳せる。続いて平安時代に多量の金が産出された八溝山を眺めに、犬神ダムへ。東北の金が都の文化を支えたことを思う。さらに、明治の女流画家・山下りんのイコンが飾られている白河ハリストス正教会などを訪れて、会津へ。道中、大内宿の江戸時代そのままの姿に須田画伯とともに度肝をぬかれ、その後、最澄と大論争を繰り広げた学僧・徳一が会津にいたことを奇蹟のようだと思う。会津若松市に入ると、幕末の会津藩への強い同情心が溢れてきて、松平容保と会津藩士の牢固な士風がもたらした悲劇の後に、国家が会津藩にした仕打ちを苛烈な言葉で批判する。飯盛山など会津藩ゆかりの地をめぐってはいるが、観光地化された変貌ぶりに失望した司馬さんの思いはひたすらに幕末の会津藩へ向かうのだった。