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島原・天草の諸道

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旅のルート旅のルート

【旅の時期】 1980年2月1日~5日

まずは長崎県の島原半島を島原湾に沿い、島原城、原城跡を通って口之津まで行く。そして、島原の乱の原因となった領主・松倉氏の苛政に思いをいたす。その後フェリーで熊本県の天草下島に渡る。明治以降の本渡市の繁栄を思いながら、本戸(本渡)城跡にある殉教公園の丘に登り、<切支丹は、天草になにを遺したのだろう>と考える。公園に隣接する明徳寺の石段に十字架が刻まれていることに気づき、切支丹禁制時代の凄みを感じる。本渡から西に向かい富岡城跡に立ち寄り、天草灘を見ながら崎津を目指す。


原城跡


島原城

島原城
4氏19代の居城。明治維新で解体されたが、昭和39年(1964年)に天守閣を復元。内部の史料館では切支丹関係の文物を展示。
長崎県島原市城内1-1183-1
武家屋敷通り(鉄砲町)
城下の徒士階級の屋敷が区画ごとにのこる。京都のように碁盤目で、北近江余呉町の柳ケ瀬のように、通りの中央に溝が石組みで堅牢に造られ、清水が勢いよく流れる。
有家セミナリヨ跡
天正8年(1580)に建てられた小学校。少年少女たちはラテン語を学び、オルガンで唱歌を習い、絵画も勉強した。現在は標柱と石積みがのこる。
琴平大神
海に突き出した小高い丘の上にある社。司馬さんはこの丘に登って原城跡を見た。
板倉内膳正重昌の碑
島原の乱の幕府軍総司令官として派遣され、寛永15年(1638)1月1日の朝、原城へ総攻撃を決行し大損害を出して失敗、自身も戦死した。
原城跡
原城は島原半島の領主だった有馬氏が別城として築いた。島原の乱では一揆軍が立て籠もった。
口之津
島原の乱の発端となる口之津事件がおこった。のちに三池炭鉱から採掘される石炭の輸出港として明治時代に繁栄。現在も国立口之津海上技術学校があり、船員を養成している。
加津佐コレジヨ跡
豊後の府内、周防の山口などを経て、天正18年(1590)、当地に置かれた大学。後に天草に移るが、加津佐時代のコレジヨに天正遣欧使節の4人が活版印刷機を持ち帰った。
鬼池
天草市五和町にある港町。「オンノイケ(鬼池)の久助どん」という人買いが島原の子守唄に出てくる。
延慶寺
兜梅という白梅がある浄土真宗の寺。
熊本県天草市浜崎町9-32
殉教公園
本戸城跡は殉教公園となり、その丘に天草市立天草キリシタン館がある。
明徳寺
島原の乱の後に建てられた曹洞宗の寺院。石段に十字架が刻まれている。
熊本県天草市本渡町本戸馬場1148
鎮道寺
勝海舟の落書きがのこる浄土真宗の寺。
熊本県苓北町富岡2452
富岡城跡
寛永14年(1637)晩秋、天草の一揆勢に攻められるが、城将原田伊予を中心に籠城し、持ちこたえた。
頼山陽の詩碑
「雲耶山耶 呉耶越耶」で始まる「泊天草洋」の詩が刻まれている。
大江天主堂
昭和7年(1932)起工。吉井勇の「白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿」という歌碑が立つ。
熊本県天草市天草町大江1782
崎津天主堂
永禄12年(1569)に建てられ、天草のキリスト教の中心となった。現在の建物は昭和9年(1934年)に建てられた。
熊本県河浦町崎津574

この巻に登場する人物この巻に登場する人物

この巻の目次この巻の目次

  • 【島原・天草の諸道】松倉重政/城をつくる/がんまつ/サン・フェリペ号の失言/沖田畷の合戦/明暗/侍と百姓/南目へ/北有馬/口之津の蜂起/原城へ/板倉/城のひとびと/本丸の海/名残りの口之津/加津佐コレジヨ/天草諸島/鬼池/本渡/木山弾正/国衆たち/延慶寺の梅/富岡城趾へ/四郎殿/サンチャゴ/海上の城/天草灘/上田宜珍/大江天主堂/崎津

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司馬遼太郎 街道をゆく | 第17巻 島原・天草の諸道

司馬遼太郎 街道をゆく 17

島原・天草の諸道

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