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バリアフリー  2005年2月1日号

二人の写真
盲聾者国立サークルの代表、円谷正利さんと会話を楽しむ敦史君。向かい合って両手を使った触手話で会話する。共通の趣味は電車。この日も円谷さんは、駅のホームのミニチュアを敦史君にプレゼントした。敦史君と円谷さんの出会いは2年前、盲聾者友の会の1泊旅行で同室になったことがきっかけだった。おたがいに電車が趣味だとわかると、年は20歳ほど離れているが、いっきに打ち解けた。月に何回かメールのやり取りもする。話題のほとんどは電車や鉄道だ。
敦史君の写真

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敦史君が現在使っているパソコンは、ノートパソコンに、敦史君専用の6点点字仕様のキーボードとピンディスプレーを接続したものだ。敦史君にとってモニターは必要ないが、貞子さんが介助するためには不可欠だ。テキスト入力は6点点字仕様のキーボードで行い、確認はピンディスプレーでする。ホームページの閲覧はピンディスプレーで読み上げるが、現在はテキストにしか対応せず、また読み上げソフトとの相性などもあり、読めないページも多いという。
ホームページの画面
中澤さんは低頻度発生・感覚系重複障害の研究を担当する。背後に見えているのは教員などの研修用宿泊棟。教育相談に訪れる母子のための宿泊棟もあり、敦史君親子もここで研修を受けた。現状では日本の盲聾児(者)の正確な数は把握されていない。発生率を欧米並みの5000~6000人に1人とすると1万3000人程度が妥当だと中澤さんは指摘する。学齢期の盲聾児は、全国の盲学校・聾学校・難聴児学級などを対象に特総研が行った6年前の独自調査では、350人を数えた。
ピンディスプレーの写真

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点字は6つの点で表される。ピンディスプレーは、その6点に対応するピンを平面に並べ、電気的に上下させ凹凸をつくり点字をつくる。価格は15万~60万円と非常に高価なもので、購入には公的な支援が欠かせない。しかし、原則として、18歳以上、視覚障害1、2級、聴覚障害2級という条件を満たさないと支給の対象にならない。盲聾障害が制度的に位置付けられていないからだ。

文・写真 清水哲男

先天的盲聾児の言葉の獲得にパソコン・ITが果たす役割(上)

「お弁当は食べましたか」
 森敦史君(13)にたずねた。
「食べました。お弁当は今朝、お母さんがつくりました。おかずはエビフライ」 敦史君はこちらを向いて答える。
「おいしかったですか?」
 もう一度たずねる。声は聞こえていない。しかし、そうすればさも聞こえるかのように大きな声で一言一言ゆっくりとことばを続けた。伝えてくれているのはボランティアの大久保貴義さんだ。
「おいしかった」
 敦史君は笑って答えた。もちろん声を発してではない。左手は大久保さんの右手に触れている。指文字だ。大久保さんの手は、休むことなく動いている。
 周囲では30人近い盲聾者と通訳ボランティア、家族たちがにぎやかに会話を楽しんでいた。そのほとんどは音声以外の「ことば」を使ってだ。手をふれあう触手話で会話する人、指を6点点字タイプライターのキーボードに見立てる指点字を利用する人、五十音やローマ字の指文字を使う人。2004年10月のとある土曜日。昭和記念公園(東京都立川市)で催された盲聾者国立サークル交流会の風景だ。
 敦史君は1991(平成3)年8月17日、岐阜市で生まれた。生後3カ月の検診で視覚の問題を指摘され、2歳3カ月で難聴と診断された。2歳8カ月から岐阜市内の難聴児通所施設に週2回通い、その後県立岐阜聾学校に入学。4年生まで通い、5年生で筑波大学附属盲学校小学部(東京都文京区)に転入した。現在、中学部1年生。母、貞子(44)さんは転校の動機を「もっと言葉に触れる機会を増やしたかったし、本人もそれを望んだ」と話す。彼の視覚は中心に暗点がありドーナツ状に視野が残っているとされる。しかも残った視野もまだらで光とはっきりした色がかろうじてわかる程度で、目の前に人やものがあることは、はっきりした色なら判別がつくという。聴覚は大きな声には反応するが、クリアな音として伝わっているわけではない。健常者には想像しがたい生活だ。

銭湯ボランティアなど
3つのサポートを受ける生活

 公園から帰宅した夜、「銭湯サポート」をする大久保さんと銭湯に出かける敦史君に同行。現在敦史君は、月曜から金曜の午後までを校舎に隣接する寄宿舎で過ごし、週末には自宅に帰り母と暮らす。
 そして学校での授業通訳ボランティア、寄宿舎での通訳ボランティア、自宅での銭湯サポートボランティアと、大きく3種類のサポートを受けて日々を過ごしている。ボランティアは学生から主婦まで年齢も職業もさまざま。東京女子大学大学院で盲聾児教育を研究するかたわら、敦史君のボランティア・コーディネートを担当する河野恵美さんによると、現在、銭湯サポートボランティアは男性が約10名。金・土・日曜日の週3日を交代でサポートする。
 大久保さんは約束の時間に少し遅れてやってきた。敦史君はすぐに出かけず、大久保さんに赤いカードを1枚手渡し、点字で何か打てという。2人は指文字で会話し、笑っている。それができ上がるのを待って銭湯に向かった。大久保さんは車で迎えに来ていたが、河野さんによるとそれもボランティアでまちまちだそうだ。家まで迎えに来る者、銭湯の前で待ち合わせる者、車で来る者、歩いて来る者などさまざまだ。
「大切なことはルールやスタイルじゃなくて、コミュニケーションすることです。それができれば、ボランティアその人なりのやり方を敦史はちゃんと理解できるし、いろんな個性の人と出会うことで世界がひろがる」
 銭湯に着くと、敦史君は自分で下駄箱に靴を入れ、服を脱ぎ、たたみ、ロッカーにしまう。頭もからだも自分で洗う。ただし、背中だけは大久保さんと流しっこだ。そしてヒマさえあれば2人は指文字で盛んに会話する。
「敦史は、ほとんどのことを自分でできるんです。ぼくがするのは、下駄箱とかロッカーやカランの空いている場所を教えるくらい。それからおしゃべりかな」
 湯船でのホットな話題は、出かける前に家でつくっていた赤いカードのことだった。大久保さんの車に乗せてもらうのに、「乗車券」をつくったのだそうだ。「乗せてもらうたびにそれを渡すんだ」敦史君はうれしそうに笑った。大好きな電車に乗るときの切符のやり取りをイメージしているのだろうか。
「目的はお風呂に入ることだけじゃないんです」。敦史君と大久保さんの入浴風景は、河野さんがいったとおりだった。「できることとできないこと」という観点に立てば、どうがんばっても敦史君には見ることも聞くこともできない。しかし、できないことであきらめるのではなく、できることをのばしてきたからこそ、いまの敦史君があるのだ。

先天的盲聾児にとって、
もっとも困難なこと

 翌日の日曜日午後、再度自宅に敦史君を訪ねた。インターネットで岡山の路面電車について調べていた。貞子さんたち盲聾児の家族が立ち上げた家族会「ふうわ」をアピールするために、2004年11月に岡山で開かれる中四国盲聾者大会に親子で行くのだ。敦史君は岡山市内を走る路面電車に乗るのをとても楽しみにしていた。
「自分で何もかもできるようなシステムがあるといいんだけど」と貞子さんは続けた。パソコンを起動し、メーラーやブラウザーを立ち上げ、メールの送受信や受信したメールを開く、あるいは新規のメッセージページを開く、ブラウザーならページ検索や表示などに介助が必要だ。
 そして貞子さんが見つめる先には、敦史君の指先がふれているピンディスプレー(写真参照)があった。ピンディスプレーとは敦史君のコミュニケーション手段の1つである6点点字を、電気的にピンを上下させて五十音で表示するものだ。音声ソフトで読み上げられたメールやHPのテキストは、配列されたピンに左から右に出力されていく。文字入力は、パソコンのキーボードのF・D・S・J・K・Lを6点点字タイプライターのキーに見立て、点字を入力すると変換ソフトで五十音に変換される。
 敦史君の読み書きスピードは大変速い。それは思考の速さと同じだと指摘するするのは、独立行政法人国立特殊教育総合研究所(特総研)総括主任研究官・中澤惠江さん。盲聾障害を取り巻く環境をこう解説する。
「欧米では盲聾は独立した障害だと位置付けられていますが、日本ではまだ重複障害の1つだととらえられています」
 ここでいう位置付けとは、身体障害者福祉法などの法律の中に明記され制度化されるということである。貞子さんたちが「ふうわ」を立ち上げた目的の1つは、盲聾を明確に位置付けることにある。
「視覚障害、聴覚障害それぞれの困難と、盲聾というそれが重複した場合の困難はまったく別のものなのです」(中澤さん)
 盲聾障害とは完全失聴と完全失明をあわせもつことだけではなく、全盲聾、盲難聴、弱視聾、弱視難聴の4つのタイプに分けられる。敦史君はこれに照らすと、弱視難聴に分類される。
「盲聾の困難はおおまかに3点。通訳なしではコミュニケーションができない、情報の摂取が自力でできない、1人で移動し外出ができないです。その結果、子どもの知的や情緒的な発達に与える影響は大きいと考えられます。このために、盲聾児(者)が、現象的には知的障害児(者)と同じように見えるのです」
 だが、敦史君は言葉を獲得し、コミュニケーションできる。
〈パインに おさらに 入ります。バナナを 切って おさらに 入ります。〉 これは転入直後に敦史君が書いた文章だ。それが2年後の小学部卒業時には、〈2年間、とても とても 楽しかったです。……嬉しい ことも 頑張ったことも たくさん ありました〉となる。
 敦史君の発達の道筋をたどることは、コミュニケーションの持つ意味、そしてパソコンやIT機器の果たす役割を再認識することになった。(次号に続く)