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バリアフリー 2005年2月15日号
月曜日の朝、敦史君は学校の寄宿舎に戻り、登校する。自宅を出るのは午前7時過ぎ。1人では移動できない敦史君は、母・貞子さんといっしょに家を出る。教材を入れた大きなリュックサックを背負い、右手には白杖を持つ。「ラッシュの電車は大変です。白杖があっても邪魔だって感じで。しかも大きなリュックを抱えているでしょ。点字の教材って、大きいんですよ。なんてでかい荷物を持ち込むんだって、白い目で見られます」と貞子さんは満員電車での様子を話す。
「さわってみましょう」国語の授業の冒頭、原田先生は敦史君の左手をススキの穂に誘導した。理科の観察でも使われたススキだ。それぞれの授業が連係して、体験や経験を積み重ねていく。中学部1年生は11名。盲聾児は敦史君1人だけだ。敦史君は国語や数学、英語、社会、音楽、そして自立活動の6教科を個別授業で受け、理科や美術、技術の3教科は10人のクラスメートといっしょに受けている。
社会科では、人里にクマが出没し、民家に上がり込んだり、住民を襲ってけがを負わせたりする事件が続いていて、住民はビクビクして暮らしているというニュースを教材に、星先生が授業をすすめる。敦史君は「ビクビク」という意味がわからなかったが、それを説明するために、ツキノワグマがどんな動物で、どんなところにいて、それがなぜ人里にあらわれるのかと、それがどうして住民の不安につながるのか、一つひとつ敦史君に理解できているかどうか確認しながら、丁寧に説明が加えられていく。
クラス担任の左振恵子教諭による、日常の基本的な動作を身につけることを目的とする「自立活動」の授業。取材日は「渋い」味を実際に体験するために、渋柿を食べてみることにした。話の発端は春にさかのぼる。左振先生が敦史君に好きな色をたずねた。敦史君が答えた色は「紫」だった。「渋い色が好きなんだね」。左振先生の使った「渋い」がわからなかった。その時、左振先生は「渋い色」を「落ち着いて、地味で、味わい深い、大人が好きそうな色」と説明した。そして「渋い」は「色」だけでなく、「味」にもあることを説明したくて、柿の実がなる秋まで待っていた。口にした敦史君は首をかしげて不思議そうな顔をしていた。
文・写真 清水哲男
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先天的盲聾児の言葉の獲得にパソコン・ITが果たす役割(下)
「敦史は、岐阜で通っていた難聴児通園施設と聾学校で、徹底的に経験をくり返すことで言葉を獲得するための準備をしてきました」
現在、筑波大学附属盲学校中学部1年生で、先天的盲聾児の森敦史君(13)の母・貞子(44)さんは、転入後の成長・発達は早くからの育児と教育が一体的・連携的・意図的に行われ、経験・知識の蓄積に取り組んできた結果だったとする。それはもちろん学校と家庭の両方で、現在も続けられている。
先天的な盲聾児にとって言葉の獲得は、身体の成長とともに知的発達のために最も重要なカギになる。
彼らはまず、身近な家族との関係の中で、言葉を覚えるために必要な知識を経験として蓄積する。そして、意思・意味を表現するために合図や身ぶりを使う。 たとえば水を飲むという経験のくり返しが、手のひらで器をかたどり口に当てて傾ける身ぶりにつながり、「水」が物質の名前であることに気づく。その後「み・ず」という指文字、手話、点字という文字であり、コミュニケーション手段にたどりつくのだ。つまり、盲聾児に対しては、身のまわりのさまざまな事象・事物・行為を経験として積み重ねることで、その身ぶりと概念とを結合させるという、意図的な教育が必要になる。
教科の壁を超えた
体験的・意図的な実践授業
「おはようございます」
中学部で国語を担当する原田早苗教諭は敦史君の方を向いて、敦史君は机にまっすぐ向かって、朝のあいさつをした。きちんと向き合っているかどうかは問題ではない。敦史君にとっては、そこに「国語の原田先生」がいるとわかっていることが、大切なのだ。月曜日第2時限目の国語は個別授業だ。
授業では指点字が使われる。横に並んで座り、おたがいに自分が話すときは、右手の上に右手、左手の上に左手を乗せ、それぞれ人さし指、中指、薬指の6本の指で、相手のそれぞれの人さし指、中指、薬指をタイプライターのキーに見たてて6点点字を打つ。
「『気がきく』ということばを勉強しました。『気がきく』ということば、わかりましたか?」
敦史君は右手を右肩のあたりで上に振った。「わからない」のだ。原田先生は気がきくをこう説明した。
〈人が何もいわないのに、その人のことを考えて何かをしてあげること〉
「敦史君が落とした日記帳を、何もいわなかったのに友だちがひろっておいてくれました。その友だちは、なんといいますか?」
「気がきく」と敦史君に答えさせたかったのだ。だが、彼は「親切といいます」と答えた。
敦史君は原田先生から「気がきく」という言葉の説明を聞いた直後に例題を出されたにもかかわらず、「気がきく」とは答えなかった。ふつうなら、流れで「気がきく」と答えないだろうか。
「『気がきく』の逆の意味の言葉は知っていますか?」と原田先生が聞いた。敦史君は知らないと答えた。
「辞書のように言葉を言葉だけで説明しても、意味の全体像が把握できないので彼らは納得せず、情報として摂取することを拒否してしまいます。言葉の理解には対比と体系で教えることが重要です」と解説するのは、特殊教育研究所総括主任研究官・中澤惠江さん。
敦史君は、「気がきく」に対比する言葉を持たなかったのだ。「+(たし算)」を教えるには「-(ひき算)」もいっしょに教えないと理解できないという。
「対比は物事を整理するのにとても重要なことです。同じ(=)を説明しようとしたら、同じでない(≠)を説明しないと整理がつきません」と中澤さんは話す。
体系として教えるとは、たとえば電車なら「乗りもの」というカテゴリーで教えるということだ。電車、自動車、飛行機、船、自転車、バイクと似たものを集めて陸上か水上か、人力か動力か、1人乗りか複数乗員可能かなどと対比させて説明する。健常者は乗り物の存在を目や耳で確認したり、実際に乗ったりすることで、自転車やバイクという名前と役割を認識していくことになる。
気がきくに対比する言葉をもたない敦史君は、気がきくの説明に納得できなかった。「逆の意味の言葉は『気がきかない』です。いっしょにおぼえましょう」「わかりました!」。敦史君は右の手のひらでポンと胸をたたいた。
パソコンやネットがひらく
盲聾児の発達の可能性
中学部で社会科の授業を1時間受け持つ星祐子教諭は、小学部で敦史君の転入受け入れを担当した。小学部では敦史君への教育実践の最大の目標を「日本語の獲得」とした。実践では、たとえば読む力をつける上で、敦史君の関心の高い鉄道を題材にし、わからない言葉や表記を提示させたり曖昧な理解だと思われる言語については説明を加えたりした。また書く力は日記などにより表現を確認。同時に、生活全般を通して読み・書きの言葉の獲得も学習活動に組み入れた。
その上で最大の目標であった「日本語の獲得」は、まだまだ不十分だとはしつつも、確実に力をつけてきていると見ている。とりわけ読書を楽しめるようになったことを、大きな発達だととらえる。盲学校の図書館の電車に関する本は、すべて読んでしまった。
「読書は知らないことを知識として得ることでもあるので、実際に体験できなくても、さまざまな知識の習得につながるはずです」と語る。
「敦史君はメールを使うようになった5年生1年間で、言葉の獲得という意味で大きく成長した」というのはボランティアの河野恵美さんだ。「て・に・を・はもうまく使えるようになったし、れる、られる、という受け身の表現もできるようになった」
通訳というコミュニケーション手段しか持たず、また同時に複数の人とのコミュニケーションができない敦史君にとって、言葉の習熟力に寄与したのが、パソコンでありインターネットだった。
河野さんは、敦史君にとってのメールの意義として、「安心感」「間接的会話」「コミュニケーションのひろがり」の3つをあげる。メーリングリスト(ML)での大勢の人との会話は、疎外感や孤独感をやわらげ、間接的な会話を可能にした。現在ボランティアを中心に30人以上が参加するMLで、敦史君はコミュニケーションを楽しんでいる。
「大切なことはコミュニケーションすること」と河野さんがいうように、ボランティアたちはサポートすることよりもまず、コミュニケーションすることを大切にしている。それは会っているときだけではなく、別れてからもメールを使って維持される恒常的なコミュニケーションとなっている。
研究者が盲聾児(者)に対する有効な教育方法を開発しても、現場の教師が実践に情熱を注いでも、暮らしの中で盲聾児(者)自身が、情報を実際に使い、ふれる場面がなければ知的発達や言葉の獲得には結びつかない。敦史君の場合も、現場の教師たちの取り組みはいうまでもないが、大勢のボランティアたちとの日常的なコミュニケーションの中で言葉の習熟を深めてきたのだ。
同じ盲聾障害を持つ敦史君の知人・藤鹿一之さんは、訴えるようにいった。
「敦史君のケースを見れば、先天的な盲聾児の教育の可能性も、パソコンや、メールやホームページを点字として閲覧できるピンディスプレーの重要さも証明されたといえます。幸い敦史君はまわりの理解もあって自分のパソコンやピンディスプレーを持つことができた。しかし、通常18歳未満の障害児にはピンディスプレーは支給されません。盲聾という障害を、法制度の中にはっきりと位置付けてこなかったからです。言葉を覚え学習をする、いちばん大切でいちばん使いたい時期に使えないのです」
敦史君同様、手厚い支援を待ち望んでいる盲聾児たちがいることを忘れないでほしい、と藤鹿さんは結んだ。
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