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バリアフリー 2005年4月1日号
自分専用のノートパソコンをはじめて手にしたのは2000年の春。大学入学直後、英作文の授業でPCには触れたが、「苦手で、いやという印象しかなかった」という。HPを開設するきっかけとなったのは、1998年に開催された第3回アジア太平洋ダウン症会議での英語のスピーチ全文がJDSN( http://jdsn.ac.affrc.go.jp/dowj1.html)のHPで公開されたことだった。
文・写真 中和正彦
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あきらめずに頑張れば夢はかなう
自身でHPを開設・運営するダウン症患者
「自分の病気や障害の事実を語り伝えていくのはダウン症者としての私の務め」と話すのは、鹿児島県隼人町に住む岩元綾さん(31)だ。2001年1月にHP「夢紡ぐ綾」を公開した。とてもシンプルだが、綾さんの歩みと思いがストレートに伝わってくる。ダウン症患者本人が公開するHPは、世界でもめずらしいという。
命は長くても20歳まで、知的発達は小学3年生レベルまで、と生まれた時に医師から宣告された。しかし1993年に鹿児島女子大学英語英文学科(現・志學館大学)に入学、98年に卒業した。ダウン症患者の4年制大学の入学・卒業は、国内で初めてだという。
大学卒業はマスコミでも話題になり「奇跡のダウン症患者」と呼ばれたこともある。だが、綾さんはひとつの通過点に過ぎないという。
2004年4月には第8回世界ダウン症会議シンガポール大会で「命の尊さと人間の平等」について英語で講演。45分間のスピーチ全文は、ダウン症患者と家族、そして研究者をつなぐ日本ダウン症ネットワーク(JDSN)のHPで公開された。同じ年の7月に、それを読んだカリフォルニアの大学教授から1通のメールが届いた。
〈Dear Aya, I just wanted to say hi and congratulate you on your great successes. My wife and I are the proud parents of a newborn son with Down syndrome ……*〉
ダウン症患者の息子をもつ、ダウン症児教育の研究者からだった。綾さんのもとには彼だけでなく、国内外の多くの研究者から質問のメールが届く。心内膜欠損症や甲状腺疾患など様々な疾患とともに、知的発達の遅延を伴うダウン症児の教育の可能性を探る指針なのだ。
そんな娘のことを父・昭雄さん(71)は「本人がちゃんと夢を持って、あきらめずこつこつ努力を積み重ねてきた結果ですから」と笑う。
小学1年生から毎日日記を書き、苦手な算数・数学も「継続ノート」と名付けた手作りの練習問題帳で毎日欠かさず解いていった。中学生になってからはNHKラジオの「基礎英語」を聞き始め、現在も聞き続けている。大学ではフランス語も学び始め、いまも大学の聴講生として指導を受ける。
実は綾さん本人がダウン症だと知ったのは、20歳の時だった。それまでは同級生と比べて体が少し弱いだけだと思っていた。障害の内容を知った時、言葉にできないほどのショックを受けたという。
しかし「これまですばらしい人生を生きてきた。決してひるむことはない。これまでどおり胸を張って誇らしく生きていこう」という両親の言葉に勇気づけられた。「あきらめずに頑張れば夢はか
なうと信じようって決めたんです」(綾さん)
障害を持つことのつらさ、親の悩みを痛いほど知る綾さんは、障害のある子どもたちのために働きたいと希望を抱く。これまでに2冊の絵本を翻訳出版したが、今後も英語とフランス語を生かし、世界の絵本や童話の翻訳を仕事にしたいと考えている。
一方で、ダウン症の当事者として、講演などの活動にも積極的に取り組む。
2001年1月には母・甦子(65)さんと共著で『夢紡ぐ綾』を出版した。その直後に、情報発信の手段としてHPを開設した。HP作成はパソコンに詳しい知人の協力を得て、デザインやコンテンツなど試行錯誤を重ねながら公開にこぎ着けた。
どちらも一歩ずつ夢を実現してきた歩みをまとめたものだ。公開したHPには、迷うことなく著書のタイトルをつけた。「HPはデザインをもっと変えたい。パソコンやネットのことも勉強しないと」と綾さんは現状に満足していない。
掲示板にはダウン症の子どもを持つ親からの悩みや相談の書き込みが相次ぐ。たくさんのメールも届く。多い日には100通を超えることもある。ダウン症患者の可能性を確実に切り開いてきた綾さん。その原動力は、夢と使命感にほかならない。
*親愛なる綾 こんにちは。あなたのすばらしい成功の数々にお祝いを申し上げます。妻と私はダウン症の息子を誇りに思っている両親です……
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