HOME / 街道をゆく / 第4巻 郡上・白川街道、堺・紀州街道 ほか 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ洛北諸道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1972年9月10日~11日 司馬さんは、スタスタ坊主と山伏に思いを馳せながら、鞍馬街道を通って花背峠に向かい、峰定寺を目指す。途中、花背に宿を取り、夕食にワラビの海苔巻やウドの花の天ぷら、栗めしなどを食べ、杣料理と名づける。翌日、岩壁にかかる峰定寺の本堂に上り、須田さんとともに絶景を楽しむ。その後、山国街道を通って、光厳・後花園・後土御門の3人の天皇が葬られている山国陵とその御陵に隣接する常照皇寺に立ち寄り、シダレ桜を見る。山国神社で草刈りの女性と言葉を交わし、周山街道を南下して御経坂峠へ向かう。
郡上・白川街道と越中諸道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1972年10月
富山に用事ができた司馬さんは、<出かける以上は太平洋岸から日本海岸にむかってぬけ通っている道をたどりたい>と、郡上街道を北上する。郡上八幡城では、室町期の領主・東常縁が、奪われた領地を和歌で返してもらったという故事に触れ、当時の文化意識の円熟をそこに見る。五箇山の村上家では、<日本人の智恵がつくった>生活の諸道具を見て、<道具類のもつ迫力>に感じ入った。
丹波篠山街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1972年ごろ
司馬さんは大原野神社で同行者と待ち合わせをし、老ノ坂を通る際に明智光秀が本能寺の変をおこした理由について考える。亀岡では大本教の弾圧に思いを巡らせ、車は園部を通り過ぎる。夜の7時前に篠山に到着して、由緒正しい宿に泊まる。翌日、篠山城跡にのぼったあと、日本六古窯のひとつで、柳宗悦の民藝運動で重要な役割を果たした丹波焼の製陶地・立杭を訪れ、<パンダみたい>な花びんを買う。その後、山中の道を通り、正午すぎ、三田の盆地にさしかかる。三田では市街地をあげての誓文払いの日で、<縁日と夏祭りが一緒にきたような雑踏>を楽しむ。
堺・紀州街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1973年2月 中世に輝きを放った自由都市を思い描きながら、司馬さんは堺を旅する。宿院の蕎麦屋ちくまを目指すが運悪く定休日。千利休や今井宗久、津田宗及ゆかりの禅寺・南宗寺を訪れ、御陵前から入る紀州街道へ。船待神社に立ち寄る。関ケ原の合戦で紀州浅野勢と大坂勢が衝突した地、樫井を訪れ、古街道の匂いを嗅ぐ。塙団右衛門と淡輪六郎兵衛重政の墓碑も訪れる。
北国街道とその脇街道※「GoogleMapで見る」のルート表示の線は訪問地のポイントを結んだもので、実際の旅行ルートとは異なる場合があります 旅のルート【旅の時期】 1973年2月20日~21日 司馬さんの旅の出発地は、初めて訪れた琵琶湖北岸の海津。海津から奈良時代の官道をたどり、国境、疋田を経て敦賀に向かった。古代に、いまの中国東北部に興った渤海国の使節団が海を渡って敦賀に上陸、この街道を通ってはるばる海津にやってきたことに思いを馳せる。翌日、敦賀から海岸道路を北上して武生に向かった司馬さんは、海まで迫る大山塊の存在が北陸の日本史にもっとも重大な影響を与えたのではなかったかと、継体天皇や柴田勝家などの行動から分析する。入り江ごとにある集落のなかで、杉津の浜の美しさにひかれ、大良の水仙に室町文化が日本の文化の原型となっていることを考え、また、赴任する父とともに武生に来た紫式部を思う。武生からは北国街道を南下。栃ノ木峠を越え余呉湖へ至ると、羽衣伝説と渡来人について考える。そして木ノ本を目指す途中、勝家と羽柴秀吉の賤ケ岳合戦に思いをめぐらし、秀吉の勝因を考えつつ、旅を終える。
この巻に登場する人物この巻の目次
|