久坂玄瑞は、吉田松陰のことを「尊敬はしているものの、付き合うには苦手なタイプ」と思っていた節がある。純粋な人柄で才知に長けていたものの、感情の起伏が激しく、俗人離れした異端者としての面が強い松陰は、誰とでも付き合いやすいタイプではなかった。
松陰の強い要望により、松陰の妹・文と結婚した玄瑞。しかし、家庭で過ごすことはほとんどなく、獄に入れられた松陰にも近づこうとしなかった。
だが、安政の大獄によって松陰が非業の死を遂げると、その死の利用価値に気づいたのもまた玄瑞だった。
やがて玄瑞は、亡き松陰を尊王攘夷のシンボルとして祭り上げていく。
松陰の遺品を他藩の同志(土佐の武市半平太など)に配ったり、罪人だった松陰の改葬許可を幕府に求めたり、藩校・明倫館の教材に松陰の著作を採用するなど、「尊王攘夷を望みながらも、幕府という権力に楯ついて殺された松陰」の復権に乗り出す。
そして、久坂玄瑞は尊王攘夷の雄藩・長州の若きリーダーとして頭角をあらわしていく。