「求むれば救いの手が差し伸べられる」
行け、善財よ
彼の山には勇猛なる観自在菩薩
衆生を導き、慈しまんとして住しておられる
彼の菩薩は汝がために真理への道を説くべし
『華厳経』の最終章「入法界品」は、生きることに苦しむ人を救う手立ては何かと、善財童子が神・菩薩・苦行者はむろん、様々な道の達人を訪ね求めて教えを乞う一大叙事詩。本書は東大寺・森本公誠長老がその精華を読み解き、善財童子の求道の絵巻と共に紹介する。旧版(1998年)を大幅に改訂、新たに註釈や解説を加えた唯一にして必携の解説書。東大寺、藤田美術館、東京博物館などに分蔵される「善財童子絵巻」の五十五場面すべてを収録。
(本書「解説」より)
善財童子が訪ねた善知識の顔ぶれはまさに多様である。俗界の支配者たる国王を含め、法律家、教師、船長、職人、商人、果ては遊女に至るまで、実に様々な職業人が登場する。そうかと思えば、信仰上の神々や菩薩、世俗を離れた修行者、はるか昔に亡くなったはずのブッダの母摩耶夫人、ブッダの妃瞿婆女人が登場する。
(中略)
振り返れば、善財の旅は人生を旅立とうとしている若きすべての男女にとっての鏡なのではなかろうか。善財も菩薩だとすれば、菩薩とは志を持つ人であり、初志を忘れない人であり、貫徹の心を持ち続ける人である。ただ菩薩も人間であり、実体ではない。生死を抱えたもろい存在である。時には立ち止まって経行なり瞑想なりをして、みずからの立ち位置を確かめ、ふたたび旅を続けることだ。悟りとはその人にとって、世のため人のために究めるべき目標なのではないか。目標はじっと一か所にとどまって待っていてくれるとは限らない。善財は問いかける。悔いのない人生をと。