朽木村(滋賀県) 最初の『街道をゆく』でたずねた滋賀県の朽木街道。『国盗り物語』の舞台でもある。 |
| 〜旅する前に〜 | |
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東大阪市下小阪に懐かしい場所がある。 かつてその家を何度となく訪ねた。 司馬遼太郎さんの自宅で、近鉄八戸ノ里駅から十分も歩けば着く。にぎやかな駅前と比べてずいぶん静かな一角にあり、いまは「司馬遼太郎記念館」となっている。 玄関前に立つと、いろいろ思い出すことがある。『街道をゆく』の旅は、いつもここから始まった。迎えにいくと、 「はい、ありがとう」 といって、司馬夫妻が出てくる。 出発前、夫人のみどりさんは忙しい。 いつも大荷物となる。その荷造りも大変だし、出かける間際の司馬さんの注文もさばかなくてはならない。この靴は嫌だとか、この服では暑いだろうとか、司馬さんは意外にわがままなのだ。車に乗り込むと、みどりさんはひと仕事終えた感じで、大きくため息をつくこともあった。 一方、司馬さんはひと騒ぎを終えて、涼しい顔をしていた。そう、司馬さんのなかでは、旅はもうはじまっている。新大阪駅や大阪空港までの車中、旅の狙いを話してくれた。 これから行く旅先について、すでに丹念な“予習"は済ませている。イメージをふくらませ、旅の構想を楽しそうに話す司馬さんを見て、みどりさんもつられて機嫌のいい顔になっていった。私の記憶のなかの司馬さんはいつも若々しい。相づちをうち、笑っているうちに、すぐに駅や空港についてしまう。一緒だと、とにかく時間の経つのが早かった。 北海道を歩き、ニューヨークを歩き、台湾を歩き、最後はやはり東大阪の喧噪に戻ってくる。 「帰ってきたねえ」 旅の夢から覚めた感じでいう。やや残念そうだが、それでいて東大阪が懐かしそうでもある。台湾から帰ってしばらくして、司馬さんがいったことがあった。 「わざわざ台湾に行くこともなかったな。台北の人もにぎやかだったけど、我が東大阪のおばちゃんたちも負けずに元気で、声が大きくて、これだったら、行っても行かなくても同じだったね」 東大阪へのエールと、私は受け取っていたが、さてどうだったか。
司馬さんの全作品のなかで、もっとも長く連載した作品が、『街道をゆく』になる。一九七一(昭和四十六)年に週刊朝日で連載がはじまり、司馬さんが亡くなる九六(平成八)年まで、ほとんど休みなく続いた。文庫本(単行本、ワイド本)は実に四十三冊を数える。 『街道』の第一回は「湖西のみち」。司馬さんが愛した近江からはじまっている。 古代の渡来人たちの足跡が残る琵琶湖西岸を歩き、浅井・朝倉連合軍に追われた信長が逃げ込んだ朽木村(現・高島市)も訪ねた。古代から室町、戦国までの歴史をさらりと見せてくれたが、みどりさんに聞くと、たった半日の取材で書いたものだという。この作品で、『街道』について“宣言"している。 街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである。 過去から未来までの時間の世界を、臨場感たっぷりに見せてくれた。まるでタイムマシンに乗るようにして、司馬さんは『街道』を描写し続けた。タイムマシンの助手となった担当編集者は、二十五年間で五人。私はその最後の担当者になる。 当時、朝日新聞大阪本社には大阪出版本部という小所帯のセクションがあり、そこに配属された若手の記者が、『街道』の担当者になることになっていた。 上司から、担当者をやってみないかといわれたときはうれしかった。あとにも先にも人事がうれしかったのはこのときぐらいだろう。小説はだいたい読んでいて、ファンのつもりだった。しかし、「待てよ」とも思った。忙しく考え、あわてて断っている。理由はふたつあった。 「いや、できないですよ。だいたい、英語が話せないし……」 司馬さんの旅は日本全国に限らない。 中国や韓国などのアジアだけでなく、スペインやアイルランドといったヨーロッパ編もある。担当者は海外でクレバーな折衝をしなくてはならない局面もあるだろう。そう漠然と思っていたのだが、上司は笑った。 「いや、俺だって話せないけど、スペインは司馬さんと一緒にいったよ」 上司もかつての担当者で、二代目の山崎幸雄だった。スペイン、ポルトガルの旅を共にして、司馬さんの信頼も厚かった。何を根拠に思っていうのか、 「おまえなら大丈夫だ」 と繰り返す。たしかに彼は司馬さんのことはよく知っている。しかし、私のことはどうもあまり知らないのだ。 「じゃあ、今度の週末に挨拶にいこうや」 穏やかに微笑む顔を見て、もうひとつの理由が言えなくなった。言いたくても言えなくなることが、人生にはときどきある。 もっとも山崎は、話し終わったあと、やや不安な表情を浮かべた。 「くれぐれも、司馬さんの原稿だけはなくさないようにな」 と、いった。 私の仕事机は、書類が山また山となっていつ崩れてもおかしくない。それを思い出し、「司馬番」に指名したことを、急に後悔したのかもしれない。 私はもっと不安だった。 致命的な欠陥をうち明けられないまま、ルビコン川を渡ってしまったのだ。小説は大ファンの私だが、このとき『街道をゆく』は、一冊も読んではいなかったのである。一九八九(平成元)年秋も終わりで、私はまだ三十一歳。司馬さんは六十六歳だった。 |